第46話 ツバキの思い出①


  ※※※※


「復讐?」

 ベンガクが訊くと、ゲッコウは――ようやく冷静な表情になって、

「まあな」

 そう答えた。

「蜷川ツバキ女流2冠がなぜ強いのか。勝ちたいと思う勝負で必ず勝てるのか知りたいか。あの子は他の子たちとは違う。『憎しみ』で将棋を指しているからだ」

 と。


 若き森谷ゲッコウが前原イチロウと出会ったのは、彼がプロ編入試験の日程を送っているときのことであった。

 蜷川ツバキ女流2冠の父親である前原イチロウは、アマチュアながら非常に強い将棋指しだった。

 だからアマチュアの大会でもよく勝っていたし、プロ棋戦のアマチュア枠でも良いところまで進んでいたのである。そんな彼が、プロ編入試験を受ける資格を得たのは至極自然のことであった。

 プロ編入試験は、現役の4段プロ棋士5人と5番勝負をして3勝以上すればいいという決まりである。将棋会館でゲッコウと顔を合わせた時点で、既に彼は2勝を決めていた。

「森谷ゲッコウ先生!」

 前原イチロウは駆け寄ってきた。

「先生の相矢倉の定跡書、擦り切れるまで読みました! 大ファンなんです、どうか握手を!」

 イチロウは眼鏡の奥にある瞳を輝かせながら、両手を差し出してきた。ゲッコウも悪い気はしない。

「前原さん、あなたのような強い人がプロになれば将棋界もまた活気づきます。頑張ってください」

 と、ゲッコウはそう伝えた。


 だが、3戦目で問題が発生したのである。前原イチロウがプロ棋戦にはない新手を出して、勝利。

 そしてそのあと…………。

 将棋会館の男子トイレから、誰のものとも分からないスマートフォンが見つかったのである。そこにはプロ編入試験第3局の棋譜が記録されていた。

 当時、最強と呼ばれていた将棋AIソフト「サブトラクト」の解析データ込みで。

 ――前原イチロウは、編入試験中の対局でトイレ離席をしたときに、スマートフォン内臓の将棋AIを使ってカンニングをしたのではないか、と、そういう疑惑をかけられたのである。

 そうして彼は棋士会で吊るし上げられることになった。

 当時、将棋連盟会長だった勅使河原バクト永世棋聖は率直に伝えた。

「やったのか? やったのなら、正直に言え」

 と。

 もちろん、前原イチロウは必死になって否定した。

「そんなことは断じてしていません! なんで、なんでこんなことになっているんですか!?」

 彼は全プロ棋士の前で声を張り上げた。

 とはいえ、前原イチロウでないなら、いったい誰がそんな通信機器をトイレに置いておく必要があるというのだろうか?

 勅使河原バクトのとなりにいた龍堂寺アキラ竜王が声を張り上げる。

「お前の指し手は将棋AIとの合致率が75%以上だった。なんだこれは? しかもあの新手▲4五桂。

 プロでもない素人のお前に、そんな手が指せるわけないだろうが!」

 このとき、若き花咲ベンガクは真っ先に席を立った。


「もういい! 将棋指しがコンピュータに頼っただの頼らなかっただの、こんな話を聞くだけで俺は胸糞が悪くなる! ここにいる全員を嫌いになりそうだ!

 帰る!」


 そう言って、退室。

 …………余談だが、現在既にベテランの花咲ベンガクが未だに連盟理事会に入っていないのは、この退席騒動が理由だと言われている。

 森谷ゲッコウは、前原イチロウを見た。

「おれは、対局前の彼と顔を合わせましたよ。彼の将棋に対する愛情と尊敬は本物だと感じました。――おれは彼がやったとは思いません」

 と発言。

 そして、当時既に最年少名人&七冠同時獲得を達成していた架神ゼンイツは、

「僕は中立でお願いします。見ていないものについてはなにひとつ断言できません」

 と静かに発言。

 若き合田カズヒトは「そんなに文句があるなら、事前にスマートフォンを取り上げてから指し直せばいいじゃないですか?」と呟く。

 意見はバラバラ。

 棋士会は、ほとんど膠着状態に陥ってしまった。


 そして当時の会長、勅使河原バクトは悩んだ末に最悪の判断を下してしまったのである。

 それは、外部の第三者委員会に調査を依頼するのではなく、、という方法である。

 この世で最も醜い計算式があるとすれば、それが多数決であり、つまり民主主義である。1の賢者を99の愚民がすり潰せる、競技の世界であってはならないこと。


 結果、有罪51%対無罪49%の票割れで確定。

 前原イチロウはプロ編入試験に不合格となった。

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