第28話 アマネの初対局⑨


  ※※※※


 …………苦しい。

 それがイチカの感想であった。▲8五香打から、

 …………以下、△4五歩▲8六香打△7二銀打▲6二歩打△同金右▲7四角△7六桂▲8三香成△同銀直▲同香成△同銀▲同角成、であった。


 …………△4五歩としてアマネちゃんの銀を取ったけど、それは苦しまぎれ。そのあと▲8六香打と攻撃の手を足されて、こちらのほうは△7二銀打として受けるしかない――だけど、▲6二歩打~△同金右の流れが激痛。

 あとは、▲7四角~▲8三香成△同銀直▲同香成△同銀▲同角成までは順当ね。

 こちらは△7六桂としてアマネちゃんの玉に迫ってみたけど、たぶんこれは寄せきれない。


 将棋は苦しい。


 こういうとき、イチカは一瞬だけ思う。

 …………どうして将棋なんて指しているんだろう、と。

 思い出す。

 交際していたサラリーマンの男性に、レストランで膝をつかれて、婚約指輪を渡された日のことを。

 そんな出来事をベンガクくんに相談したら、彼に「幸せになりなよ!」と微笑まれたときのことを。

 結婚して数年も経たないうちに、病院で、自分が子供を生めない体だと判明したときのことを。

 夫婦関係が冷え切っていく毎日のことを。

 夫が帰宅して「なんだよ、メシはないのか?」と言い出し、わたしが「しょうがないでしょ。明日はタイトル戦なの」と言い返したら、

「タイトル戦って――どうせ女流だろ?」

 と、吐き捨てるように言われたときのあのことを。

 そして、「結婚したら、変わってくれると思ってた」と呟かれたときのことを。

 最後は、そうだ、その日は対局が相手の病欠で不戦勝になって早めに家に帰れたんだっけ。

 そうしたら、夫のほうは家に若い女を連れこんでいたのである。

 …………ベンガクくんと、当日、いつものラーメン屋でごはんを食べながら、涙が止まらなくて。そうしたらベンガクくんは、メニュースタンドを動かして、わたしが泣いている顔を店員から隠してくれたっけ。


 イチカはため息をついた。こちらの玉は完全に受けなし。

 先の▲同角成から、

 …………以下、△8八飛打▲7九玉△6八飛成▲同金△8八銀打▲7八玉△7九金打▲6七玉△6八桂成▲5七玉△5八金打▲6六玉△7七銀▲5五玉、であった。

 …………わたしの悪あがきに少しも引っかかってくれないなんて、本当に生意気な新人さんね。

 お顔は、こんな、天使みたいに可愛らしいのに。

 イチカは天井を見上げてから、ゆっくりと熱めのお茶を椀に注いで飲み干した。

 ふう。

 …………新人相手に初戦敗退かあ。久しぶりだけど、やっぱりキツいものはキツいなあ。と、イチカは思った。

 それから、


「負けました」


 と頭を下げた。

「ありがとうございました」

 と、アマネのほうもおじぎをしてくる。

 記録係が棋譜用紙にペンを走らせながら、

「まで、111手をもちまして、海棠アマネ女流2級の勝ちとなりました」

 と告げた。


 海棠アマネは、「はあ」と、疲れ果てた表情をやっと晒せるという感じで息を吐いていた。公式戦で初めての、しかも、ベテランかつ大御所を相手にした勝利ではあるが、それを喜ぶ余裕もないのだろう。

 イチカは、

「あなたの将棋は、本当にまっすぐね」

 と、囁くように言った。

「…………?」

 と、アマネは首を傾げてくる。だから、イチカは言葉を繋いだ。

「どこまでも迷いがない。あんなに怖いルートをよくアクセル全開で進めるのかなって、わたし、ビックリしちゃった。

 揺るがない心。

 それがあなたの強さなのね」

 でも、とイチカは目をそらしてしまう。

「その原動力は、いったい、どこから来るの?

 …………だって、女が将棋なんて強くても、幸せにはなれないじゃない?」

 彼女の私語を、記録係の男は止められなかった。なんだか、そういう雰囲気だったからである。


 アマネのほうはといえば、駒台に置かれた桂馬をパチパチと盤上で弾いてから、また戻した。そうして、再び首を傾げる。

「イチカ先生の言ってることが、私は分からない」

 とアマネは言った。そして、こう続けたのである。


「私は幸せになりたいんじゃなくて、名人になりたい」


 これが勝負の全てであった。

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