5. 感情の仮面
中野先生の指先が鍵盤にそっと置かれる。
小さく、微かな音が空気を震わせた。
深呼吸をひとつ。旋律が静かに流れ始める。
先生の音は深く、柔らかく、それでいてどこか切なくて。私の指先が紡ぐ音は、たどたどしくて、不器用で、でも懸命で。
最初はうまく合わせられなかった。
重なり合うはずの音がずれて、旋律がふと揺らぐ。
そのたびに、先生の音がそっと寄り添う。
まるで——私を導くように。
涙が込み上げそうになった。
先生の音はいつもとは違って、あまりにも優しかった。
でもその優しさの奥に、長い時間を閉じ込めた痛みが滲んでいる。
誰かを想い続ける響き。
過去にすがることでしか立っていられなかった孤独。
そのすべてが、音になっていた。
それでも私は、同じ音を弾きたかった。
同じ景色を見たかった。
過去ごと、全部抱きしめるように。
それが——今の私にできる、たったひとつのことだから。
高音と低音が交差するたびに、心臓の奥を強く掴まれる。
呼吸は浅くなり、鼓動は速まって、指先から伝わる熱で身体が震えた。
私たちのあいだに言葉はいらなかった。
この音に触れているだけでわかる。
先生の心は、まだどこか遠い。近づけそうで、近づけない。それは今までと変わりない。
でも今は、遠いままでもいいと思えた。
たとえ届かなくても、この音で繋がっていられるなら。
今の私はそれだけで、十分だった。
◇
やがて、最後の和音がそっと空気に溶ける。
長い長い余韻が、静けさと一緒に部屋を満たしていった。
息をするのも忘れて、しばらく私は動けなかった。
涙が溢れるのを必死で堪えて、震える手を膝の上に置く。
「……すごい、藤里さん」
静かな声が背中から届く。
振り返ると蒲田先生が立っていた。柔らかく、優しい瞳でこちらを見ている。
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。
緊張と、感情と、想いと。
すべてが絡まり合って、言葉にできなかった。
中野先生とピアノの始まりは、偶然聴いた先生の旋律だった。
最初こそ好奇心だけだったけれど、いつの間にか先生のことが大好きになっていた私。
亡くなった奥さんがいたこと。
この音楽室が、その奥さんとの思い出の地であること。
それらすべてを踏まえても、私は中野先生のことが大好き。
先生のことを一番見ている。
ピアノを通じて、そんな溢れる想いを伝えたいと思った。
中野先生は、まだ鍵盤を見つめたまま動かない。その横顔はとても静かで、どこか遠い過去を見ているよう。
先生の手がゆっくりと、自身の胸元に触れた。
白いシャツの隙間から、細いチェーンが出てくる。
その先で揺れている、小さな銀の指輪。
光を受けて、かすかに煌めくそれを見た瞬間、蒲田先生が小さく「あ……」と声を漏らした。
先生は気づかないふりをしたまま、指先でそっと指輪をなぞる。
しばらく沈黙が続き、やがてぽつりと言葉が零れた。
「……いつまでも、捉われたままだと……いけませんね」
低く静かな声だった。
苦しみを吐き出すわけでもなく、過去を断ち切るわけでもなく、ただようやくその重さを受け止められたような響き。
そう言った先生はほんのすこしだけ、微笑んでいた。
息が詰まるほど胸が締めつけられる。
この人はきっと、今を生きようとしている。それが伝わってきて涙が滲む。
過去に戻ることはできない。
忘れることもできない。
それでも——その痛みを抱えたまま、新しい一歩を踏み出そうとしている。
それを間近で見てしまった瞬間、涙が勝手に零れ落ちた。
感情を上手く言葉にできないけれど、頑張って誘えてよかったと思えた。
「……先生」
名前を呼ぶだけで、声が揺れる。
けれど、それ以上は何も言えなかった。
先生はそっと私を見る。
その瞳の奥で揺れる光が、どこか穏やかで、優しかった。
遠くの方から、微かに文化祭のざわめきが遠くに聞こえる。
それでもやはり、旧校舎の音楽室は、世界から切り離されたみたいに静かだった。
私はそっと目を閉じる。
この空気を、今日という時間を。それらすべてを、胸に焼きつけておきたいと思った。
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