5. 感情の仮面


 中野先生の指先が鍵盤にそっと置かれる。

 小さく、微かな音が空気を震わせた。

 深呼吸をひとつ。旋律が静かに流れ始める。

 先生の音は深く、柔らかく、それでいてどこか切なくて。私の指先が紡ぐ音は、たどたどしくて、不器用で、でも懸命で。

 最初はうまく合わせられなかった。

 重なり合うはずの音がずれて、旋律がふと揺らぐ。

 そのたびに、先生の音がそっと寄り添う。

 まるで——私を導くように。


 涙が込み上げそうになった。

 先生の音はいつもとは違って、あまりにも優しかった。

 でもその優しさの奥に、長い時間を閉じ込めた痛みが滲んでいる。

 誰かを想い続ける響き。

 過去にすがることでしか立っていられなかった孤独。

 そのすべてが、音になっていた。


 それでも私は、同じ音を弾きたかった。

 同じ景色を見たかった。

 過去ごと、全部抱きしめるように。

 それが——今の私にできる、たったひとつのことだから。


 高音と低音が交差するたびに、心臓の奥を強く掴まれる。

 呼吸は浅くなり、鼓動は速まって、指先から伝わる熱で身体が震えた。

 私たちのあいだに言葉はいらなかった。

 この音に触れているだけでわかる。

 先生の心は、まだどこか遠い。近づけそうで、近づけない。それは今までと変わりない。

 でも今は、遠いままでもいいと思えた。

 たとえ届かなくても、この音で繋がっていられるなら。

 今の私はそれだけで、十分だった。



 やがて、最後の和音がそっと空気に溶ける。

 長い長い余韻が、静けさと一緒に部屋を満たしていった。

 息をするのも忘れて、しばらく私は動けなかった。

 涙が溢れるのを必死で堪えて、震える手を膝の上に置く。

「……すごい、藤里さん」

 静かな声が背中から届く。

 振り返ると蒲田先生が立っていた。柔らかく、優しい瞳でこちらを見ている。

 その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。

 緊張と、感情と、想いと。

 すべてが絡まり合って、言葉にできなかった。


 中野先生とピアノの始まりは、偶然聴いた先生の旋律だった。

 最初こそ好奇心だけだったけれど、いつの間にか先生のことが大好きになっていた私。

 亡くなった奥さんがいたこと。

 この音楽室が、その奥さんとの思い出の地であること。

 それらすべてを踏まえても、私は中野先生のことが大好き。

 先生のことを一番見ている。

 ピアノを通じて、そんな溢れる想いを伝えたいと思った。


 中野先生は、まだ鍵盤を見つめたまま動かない。その横顔はとても静かで、どこか遠い過去を見ているよう。

 先生の手がゆっくりと、自身の胸元に触れた。

 白いシャツの隙間から、細いチェーンが出てくる。

 その先で揺れている、小さな銀の指輪。

 光を受けて、かすかに煌めくそれを見た瞬間、蒲田先生が小さく「あ……」と声を漏らした。

 先生は気づかないふりをしたまま、指先でそっと指輪をなぞる。

 しばらく沈黙が続き、やがてぽつりと言葉が零れた。

「……いつまでも、捉われたままだと……いけませんね」

 低く静かな声だった。

 苦しみを吐き出すわけでもなく、過去を断ち切るわけでもなく、ただようやくその重さを受け止められたような響き。

 そう言った先生はほんのすこしだけ、微笑んでいた。

 息が詰まるほど胸が締めつけられる。

 この人はきっと、今を生きようとしている。それが伝わってきて涙が滲む。

 過去に戻ることはできない。

 忘れることもできない。

 それでも——その痛みを抱えたまま、新しい一歩を踏み出そうとしている。

 それを間近で見てしまった瞬間、涙が勝手に零れ落ちた。

 感情を上手く言葉にできないけれど、頑張って誘えてよかったと思えた。

「……先生」

 名前を呼ぶだけで、声が揺れる。

 けれど、それ以上は何も言えなかった。

 先生はそっと私を見る。

 その瞳の奥で揺れる光が、どこか穏やかで、優しかった。


 遠くの方から、微かに文化祭のざわめきが遠くに聞こえる。

 それでもやはり、旧校舎の音楽室は、世界から切り離されたみたいに静かだった。


 私はそっと目を閉じる。

 この空気を、今日という時間を。それらすべてを、胸に焼きつけておきたいと思った。

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