第9章 小さな愛の夢
1. 過去を知る人
校内はいつのまにか、空気が文化祭一色に染まっていた。
階段の掲示板には色とりどりのポスターが張られ、教室の隅には制作物が溢れている。生徒たちの楽しそうな声が、校内を非日常にさせた。
ざわついた廊下の空気がすこしだけ浮き足立っていて、季節がひとつ進んだことを感じさせた。
秋の陽射しが、放課後の教室に斜めに差し込んでいた。
窓の外にはもう夏の名残はなかった。けれど私は、まだあの夕暮れの音楽室を引きずっている。
——中野先生の涙。
今も記憶に残る、あのときの光景。
先生の涙を笑顔に変えたい……なんて、私にはできないかもしれない。それでも——。
「……何ボーっとしてんの、莉乃」
「ん?」
隣の席から司波の声がして、私はびくりと肩を揺らした。
文化祭の準備で、ここ数日の生徒会は忙しい。そんななか、集中できないのは……たぶん、私だけ。
「え、ごめん……何?」
「備品の在庫確認。やっといて」
「あ……うん」
私の返事に、司波はそれ以上何も言わなかった。
けれどその視線が、さっきまで私の顔に向いていたことには、気づいていた。
何か言いたげな空気。けれど言葉にならなかったそれは、また沈黙の中に消えていく。
放課後の生徒会室。窓の外から軽音部の音が聴こえてくる。遠くて、ちょっとだけ歪んだ音。でも、嫌いではないと思った。
文化祭での今年のテーマは〝交差と再生〟らしい。
司波が黒板に書いたその言葉を見たとき、私は、ひとり心臓を掴まれたような気持ちになった。
交差して、再生する。
交わらないはずだった〝私〟と〝中野先生〟が交差して、共に再生する。
ふいにそれが脳裏をよぎった。
行動するなら、今しかない。
先生を悲しみから救えるのは、ピアノしかない。
だから、文化祭当日——私は、中野先生を旧校舎の音楽室に呼んで、連弾をしようと思った。
◇
私はその日、生徒会の仕事を終えるとすぐに旧校舎へ向かった。
秋の風が、夕暮れの空気をすこし冷たくしていた。
西の空に浮かんだ雲が茜色に染まり、汚れた窓ガラスにゆっくりと影を落としていく。
誰もいない渡り廊下を歩くたび、足音が寂しげに響いた。
旧校舎の片隅、今では使われていないこの場所。
その2階にある音楽室——私が、先生の秘密を知ってしまった場所。
「……」
借りた鍵で扉を開けると、室内にこもっていた微かな埃の匂いが広がる。
懐かしさと静けさが、この空間を優しく包んでいるように感じた。
私は、そっと鍵盤に触れる。
——連弾なんて、ほんとうはとても怖い。
失敗するかもしれない。緊張で指が動かなくなるかもしれない。
そもそも、私と中野先生では釣り合わない。私の自己満足。私の、独りよがり。
だけど、それでも。
あの旋律を、私も届けたいと本気で思った。
中野先生だけに届けたい。
それがたとえ、心の奥底まで届かなくても——。
「……よろしくお願いします」
誰もいない音楽室で、私は小さくそう呟いた。
鞄から取り出した楽譜を開き、ピアノの前に座る。そして大きく深く息を吸う。
そっと指を置くと、静かに鍵盤が沈んだ。
今度は私の中に残る〝記憶〟ではなく、楽譜通りの正しい音を。
そう思いながらゆっくりと指を動かし、ひとつひとつの音を大切に奏でていく。
練習しても、音はまだまだぎこちない。
それでも、音は音でしか語れない想いを乗せて、確実に伝えてくれると思った。
何度もつまずいた。
何度も止まった。
それでも私は、けっして諦めなかった。
——先生に、もう一度、笑ってほしい。
その想いだけで、何度も何度も指を動かした。
◇
ぎこちない。何度弾いても、うまくいかない。
だけど、止まらずに進む。
つまずいても、手を止めない。
——先生の、あの音に、すこしでも近づきたくて。
感情が溢れそうになると、指先が軽く揺れた。
過去も、痛みも、すべて乗せて——それでも私は、音にしていく。
そうやって音を紡いでいると、不意に背後から声がした。
「……結構、弾けるのね」
蒲田先生の声が静かに背中から届いた。
ゆっくりとこちらに歩み寄り、すこし離れた位置にある生徒椅子に、蒲田先生は腰を下ろす。
「中野先生と連弾をしたいって言っていたけれど、文化祭でってことよね?」
「……はい。文化祭です。当日まで黙っておこうと思っているので、先生が話に乗ってくれなかったら……すべてなかったことになるんですけどね」
私が応えると、蒲田先生はすこしだけ目を細めて、懐かしむように微笑んだ。
床を見つめているようで、そうではない。どこか遠くを見ているかのような眼差しで、蒲田先生は言葉を続けた。
「——中野くん、昔からピアノが好きだったからね」
「……蒲田先生は、中野先生のことをよく知っているのですか?」
「えぇ。中野くんは、この学校の卒業生でね。私の教え子なの」
蒲田先生は、窓の外へ視線をやりながら言葉を続けた。
「……彼の担任として3年間、そばにいた」
その声には、すこしだけ懐かしさが混じっている。
「放課後になると、よく音楽室でピアノを弾いていたの。ひとりではなかった。いつも、ある女の子と一緒にね」
先生のその言葉には、なにか遠い記憶を慈しむような優しさがあった。
私は思わず、言葉を飲み込む。
亡くなった奥さんと中野先生が過ごした、大切な青春の地。
いつか話してくれた言葉が蘇る。
蒲田先生が言う〝ある女の子〟こそ、中野先生の亡くなった奥さんで間違いないと思った。
「……」
心臓の鼓動が速くなる。
軽く触れただけの言葉なのに、なぜこんなにも心に残るのだろう。
息がすこしだけ苦しくなって、どうしようもない。
「ふたりとも、ほんとうに息が合っていた。藤里さんもわかると思うけれど、連弾ってね、ただ正しい指の動きだけじゃダメなの。心が揃っていないと、どうしても響きが不揃いになるじゃない?」
「……はい」
「でもあのふたりは……心が、ひとつだった。乱れひとつない音、だった」
ぽつりとそんな言葉を落としたあと、蒲田先生は静かに私を見た。
その目に涙が滲んで見えたのは、きっと気のせいではないと思う。
「あなたと中野くんが、どのくらい音を合わせられるのかはわからない。でもきっと、あなたの気持ちは彼に届くと思うの」
「……」
「心を閉ざして数年。いい加減、明るくて元気だった中野くんに戻って欲しい。たぶん、〝今の彼〟の音に耳を傾けてくれる人は……あなたしかいないから」
震える蒲田先生の言葉が、私の胸の奥にそっと流れ込んでくる。
あまりにもまっすぐで胸が苦しい。けれど、やる気に満ちたのも事実だった。
「……そうなれたらいいなって、思います」
窓の外では、秋の風が夕焼けのもとをゆっくりと吹き抜けていた。
カーテンの影が床に揺れている。
蒲田先生とふたり。静かに、時間が過ぎていく。
この一瞬、この一秒——それらすべてが、私にとってはかけがえのない時間のように思えた。
「だから……もっと、練習します」
私の言葉に、蒲田先生は微笑みながら頷いた。
そして何も言わずに席を立ち、そっと音楽室をあとにする。
「……よし」
ひとりになった私は、もう一度鍵盤に指を乗せた。
——いつかこの旋律が、あの人の心に届くように。
今はまだ不格好でも。
すこしずつでも。
この音を、きちんと響かせられるようになりたいと思った。
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