第7章 過去の記憶 side 中野裕章

1. 僕らの原点


「中野先輩、好きです。付き合ってください!」

 いつもの場所、いつものセリフだった。

 校舎裏の倉庫の横。バスケ部の練習がひと段落した夕方のこの場所は、なぜかいつも風が止まる。

 空気がじっとりと張りついて、声が妙にくっきりと耳に残る。

 またか、と思った。

 この時間、この場所で、僕は何度もこうして告白を受けてきた。

 部活の合間にひとりになった隙を狙って、どこからともなく現れる女子。

 名前も、クラスも、声すらも知らない子が、まっすぐな目で気持ちを伝えてくる。

 正直、まったく嬉しくないわけではない。

 でも、どうしても――その気持ちのどこかに、薄っぺらさを感じてしまう。

 だって〝ほんとう〟の僕なんて、あの子たちは何も知らないんだから。

「ごめんなさい。彼女とか作る気はないんだ」

 定型文のように、その言葉が口をついて出る。

 傷つけたくないから。余計な期待を持たせたくないから。

 そう言い聞かせてはいるけれど――その一言で泣かせた子は、正直、何人目だったか覚えていない。

 泣きながら去って行く背中を見つめる。

 すると、その直後。

 聞き慣れた声が聞こえてくるのだ。

「裕章、ま〜た女の子泣かしてる!」

 お決まりの登場。

 口を尖らせながら、体操服姿の藤村ふじむら莉佳りかが、倉庫の陰からひょっこり顔を出す。

 汗をかいた髪をポニーテールにまとめていて、頬にはうっすら土の跡がついていた。

「……莉佳。また、盗み見?」

「言い方が悪い! いないから探しに来たんじゃん」

 むぅ、と不満げに頬を膨らませる莉佳は、あざといくらいの演技力で首をかしげてみせる。

 そういうところも、彼女らしい。

「しかし、さすがバスケ部主将だねぇ。今日もモテモテ!」

「……だからさぁ」

 もう何度目かわからないこのやり取りに、僕はひとつ、深く息を吐いた。

 そして莉佳の頭に手を乗せて、ポンポンと軽く叩く。

 すると彼女は、さっきまでの芝居がかった表情をほどいて、ふっと微笑む。

「莉佳だけだって、あと何回言えばわかる?」

「……だって、不安になるんだもん。裕章が一言『彼女がいる!』って言えばいいのに、言わないからさぁ」

 莉佳とは、幼稚園のころからずっと一緒で、共に育ってきた。

 小学校も、中学校も、高校も、ずっと同じ道を進んできた。

 莉佳が、僕から離れようとしなかった。

 僕がバスケ部に入ると言った時もそう。

 莉佳は迷わず「マネージャーになる」と言って、行動に移していた。

 何をするにも、僕と一緒がいいなんて言って聞く耳を持たない。

 それが、彼女だった。

「……だってさ。ほんとうのことを言って、莉佳が周りからターゲットにされたら嫌だろ」

「絶対にならないよ。私、強いし!」

 莉佳が別に、そこまで僕についてくる必要などどこにもなかった。それなのに、彼女自身がそうしたいからと言って、言うことを聞かなかった。

 でもその莉佳のまっすぐな行動に、僕自身が救われることも多々あったのも事実。

 僕と莉佳は、ほんとうにいつも一緒だった。



 夕焼けが差し込む廊下を並んで歩く。

 部室の鍵を返しに行くついでに、いつものように音楽室の鍵を借りる。

 これが僕たちの日課だった。

「蒲田先生、今日も音楽室を借ります」

「ええ、どうぞ。私もあとで聴きに行ってもいいかしら?」

「もちろんです」

 軽く頭を下げて、職員室を後にする。

 並んで歩く彼女の横顔は、汗ばんだ頬がほんのりと赤く染まっていた。

 それを横目に見ながら、僕はそっと彼女の頭に手を置いた。

「今日は何を弾く?」

「莉佳が好きなやつ、やろう」

「……じゃあ、リスト一択だね」

 くすっと笑う莉佳は、軽やかな足取りで音楽室へと続く廊下を進んでいく。

 静かな放課後。文化部の生徒はもう帰宅していて、特別教室棟には僕たちの足音だけが響く。

 床板がきしむ音と、遠くから聞こえる部活の掛け声。

 すべてが日常の中の、かけがえのない音だった。


 音楽室の鍵を開けると、莉佳はまっすぐピアノへ向かう。

 グランドピアノの蓋をゆっくり開けて、そのままそっと鍵盤に手を置いた。

 最初の音が鳴った瞬間、空気が変わる。

 優しい音色が、音楽室いっぱいに広がっていった。

 窓から差す夕陽が彼女の横顔を照らす。そこにあったのは、まるで音楽そのものである気がした。

「『愛の夢 第3番』……だね」

「うん」

 僕は静かに彼女の隣に座り、右側の鍵盤に指を置いた。

 そして、ふたりで音を重ね始める。

 ゆっくりと、丁寧に、心を寄せ合うように。

 莉佳と僕は、ずっと昔からこうして連弾をしていた。

 幼い頃、同じピアノ教室に通って、時に競い、時に笑い合って——気がつけば、いつの間にか並んで弾くのが当たり前になっていた。


 言葉よりも確かなものが、そこにある。

 指先から伝わる温度と、音の重なり。

 それが僕たちの〝すべて〟だった。


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