3. 嘘の真相
保健室の扉を開けた瞬間、空気が変わった気がした。
廊下は静まり返り、昼の熱気はすこしだけ和らいでいた。
校舎の隙間から差し込む陽の光が、床にゆるやかな影を落としている。
その光のなかに、誰かの影が重なった。
「……莉乃!」
咲良だった。
駆け寄る足音が、遠くで鳴っていた心臓の音と重なる。彼女はすこし息を切らしながら、私の顔を見るなり、ぱっと安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫? 司波くんから聞いて、ほんとびっくりして……!」
「うん、ちょっと貧血だったみたい。もう平気」
そう答えると、咲良はほんのすこしだけ顔を曇らせた。
言いにくそうに視線を彷徨わせたあと、小さく唇を結んで、言葉を選ぶように口を開く。
「……あのね、さっき、司波くんと中野先生が職員室の前で話してたの。ちょっと、雰囲気がピリついてて」
「……雰囲気?」
うまく問い返せなかった。
胸がざわついて何か言いたかったけれど、それに言葉が追いつかない。
「最初に莉乃のことに気づいたのは、司波くんだったらしいの。グラウンドで、誰よりも早く駆け寄って——〝俺が連れて行く〟って、すごい勢いで言ったらしいんだけど……」
そこで、咲良はほんの一瞬、言葉を飲み込んだ。
目を伏せたまま、静かに言葉を継ぐ。
「どこからともなく現れた中野先生が、遮ったんだって。〝君は君の職務をまっとうしなさい〟って」
「……」
その言葉が、胸の奥に鋭く届いた。
驚きのあまり、咲良の声がすこしずつ遠くなる感覚がする。
「それでね、先生……莉乃のこと、迷いもなく、ひょいって持ち上げて。まるで、大事な荷物みたいに、肩で担いで保健室まで……」
その時の様子は、当然記憶にない。
けれど、なぜか頭の中にはっきりと浮かんでしまう。
無表情のまま、何も言わず、ただ静かに、でも真剣に——私を運ぶ中野先生の姿が、鮮明に思い描かれる。
「……そう、なんだ……」
小さく零した声が、自分のものではないみたいに響く。
足元がふわふわと頼りなくて、何か大切なものが、指の隙間からこぼれていく気がした。
さっき見た先生の冷静な表情も、あの低くて静かな声も。
今になって、やっと胸にじんわりと沁みこんでくる。
「でもさ、先生って……ずるいよね」
ぽつりと落とされたその言葉に、胸がざわめいた。
からかいでも、軽口でもない。
咲良の声はどこか寂しそうで、どこか羨むような響きを帯びていた。
「ずるい、って……どういうこと?」
問いかける声が、自分でも驚くほどかすれていた。
咲良はほんのすこしだけ私の顔を見て、それからふっと笑う。
「だってさ、いつも無表情で、感情なんて見せないくせに……こういうときだけ、全部もってっちゃうんだもん」
全部、持っていく——咲良のその言葉は、じんわりと胸に残る。
「そんなつもり……」
なんだか責められているような気がしてすこし俯くと、咲良は大袈裟に首を振って、言葉を訂正した。
「あ、いや。莉乃が何かしたとかじゃなくて、先生のこと。あんなに冷たくしたり、誰もが違和感を覚えるくらい極端な態度取ってたのに……結局しっかりと莉乃を見てるんだなって、思って。無関心で、酷いことしたのに。なんか、ずるいじゃん」
優しい声だった。
今度は責めるでもなく、押しつけるでもなく、ただ、そう思っただけ——というふうに。
私は小さく溜息をついて、窓の外に視線を向ける。
今もまだ準備を続けている生徒たちが、慌ただしく動き回っていた。
「……先生、私のこと……どう思ってるんだろうね」
なんて、つい言葉にしてしまった。
これ以上言葉を続けたら戻れなくなる気がする。でも、どうしても止められなかった。
「中野先生のこと……わかんないや。私が先生のことをどう思っているのかも、どうしたいのかも、何もかも……わかんない」
「……」
咲良はすぐには答えなかった。
同じように窓の外を見ながらすこしの沈黙を作り、やがて口を開く。
「中野先生がピアノを弾いてて、気になったって話聞いたとき、『それは恋』だと揶揄したことあるけど。莉乃……やっぱり、中野先生に恋してるよね」
「……」
今度は——強く否定できなかった。
恋。
そう考えれば考えるほど、ここ最近の私が抱く感情が、しっかりと当てはまる気がする。
認めたくない。でも、腑に落ちる。その感覚が、妙に居心地悪い。
「……先生にね。私が倒れたとき、『他に誰かいたか』って聞いたの」
「うん」
「そしたらね、先生ね……〝誰も、いなかった〟って、答えたんだよ」
「……え?」
率直に嘘だと思っていたが、ほんとうに嘘だった。
咲良の話によると、誰よりも早く気づいてくれたのは司波だった。
ということは。先生は私に、嘘をついたということになる。
司波がいたのに、いないと嘘をついた。
どうして。
なんのために。
問いかけたい言葉が、喉の奥に積もって、声にならない。
その時ふと浮かんだのは、保健室で目覚めた直後、視界に入ったあの姿だった。
——ネクタイを緩め、第1ボタンを外したシャツ。
窓から差す光に、どこか無防備に照らされた横顔。そこに滲む、微かな汗。
言葉よりも、何よりも。
あの時の空気が、先生の〝全部〟を語っていた気がした。
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