第6章 不器用な行動

1. 体育祭の空気


 夏休みが明けてすぐ、校内の空気は一変した。

 午前の授業は体育祭に向けた練習時間となり、各クラスの小黒板には、競技の役割や係分担のメモがぎっしりと書き込まれている。

 暑さの残る9月。

 教室の窓からは今も蝉の声が聞こえる中、生徒たちの関心はすっかり体育祭に向かっていた。

 私はといえば、生徒会の仕事と実行委員会の連絡業務に追われる毎日を送っていた。

 資料の印刷、配布、進捗の確認、打ち合わせの準備。それにプラスして、通常生徒と同じく競技の練習もある。

 気づけば朝のショートホームルーム前から放課後の夕方まで、常にどこかを動き回っていた。


「莉乃、これ明日の連絡事項。2年1組の分を渡してきてくれる?」

「うん、わかった」

 司波から手渡された紙束を抱え、走るように階段を駆け下りる。

 最近、旧校舎に近づくことすらなくなった。

 生徒会室と各教室、それから体育館とグラウンド。私の行動範囲は、まるで意図的に狭められているみたいだった。

 例えば、実行委員会の連絡。

 本来なら私が担当すべき内容でも、司波がすべて請け負ってしまうことが多くなった。

 特に……生徒会での決定事項を、に連絡するとき。

 どんなに司波が忙しくしていても、必ず彼自身が赴くのだ。

「中野先生への伝達なら、俺が行く」

「……いや、でも私も——」

「いいから。莉乃は他のことやってて」

「……」

 そう言われるたびに、言葉を引っ込めるしかなかった。

 たぶん司波は、私と中野先生が接点を持たないよう、意図的に行動している。

 理由は聞いていない。

 けれど、なんとなく……わかってしまう。

 その目はいつも、どこか張り詰めていて。私と中野先生のあいだに漂う説明できない空気に、誰よりも気づいているのは——間違いなく司波だった。


 蝉の声はいつの間にか聞こえなくなり、代わりに、遠くから応援団の掛け声が響いてくる。

 まだまだ暑いはずなのに、どこか秋の気配を感じさせる風が、カーテンを揺らしていた。



 午後の会議を終え、プリントを抱えて職員室に向かうと、廊下の曲がり角でふいに声をかけられた。

「お、藤里さん。お疲れ」

「……あ、深川先生」

 やけに陽気な声に振り返ると、濃いグレーのジャージを身にまとった深川先生が、ノートを片手に立っていた。

「今日も走り回ってるなぁ。昼、ちょっと見たぞ。階段飛ばしてたろ?」

「えっ、見てたんですか」

「見てた見てた。いやぁ、青春だねぇ」

 ノートをひらひらと振りながら、深川先生は気楽に笑う。その顔には何かを測るような色も、からかいの色もなかった。ただ、純粋に〝見ていた〟という事実だけを伝えているように思う。

「司波、張り切っているみたいだな」

「はい……さすが〝生徒会長〟って感じです。周りに気をかけて、助けて、支えて——」

「……それ、藤里さんに対してだけだと思うけど」

「……えっ?」

「あー……いやいや、なんでもない。オトナの勝手な勘さ」

 そう言って深川先生はくしゃっと笑う。

 その一瞬、なぜか中野先生の顔が浮かんでしまって、思わず視線を逸らした。

「まぁ、無理しないようにな。頑張るのはいいことだけど、倒れても意味ないからね」

「はい……ありがとうございます」

 背を向けると、いつの間にか西の窓から夕日が差し込んでいて、廊下の床が淡いオレンジに染まっていた。

 もうすぐ日が暮れる。けれど、やらなければならないことは、まだまだ山積みだった。

「そうそう、中野先生もけっこう頑張ってるよね」

 何気ない一言。

 でもその名前が出た瞬間、時間がすこし止まった気がした。

 胸の奥に、ひやりとした感覚が広がる。

「……え?」

「実行委員会、きちんと開催されてるし、話し合いに参加もしてる。無表情で無口なことに変わりないけれど、俺さ、中野先生のこと見直したんだ」

 深川先生の明るい口調が、余計に胸を締めつける。

「……そう、なんですね」

 薄く笑って、返す。その笑みは、まるで自分のものではないみたいだった。

 先生は、今もまだ何か言っていた。

 けれどその声が、すこしずつ遠くなる。

「中野先生、すごいよね」

 自分だけが別の場所に取り残されたような感覚。その場にいるのに、関われない。見えているのに、近づけない。

 中野先生に関われないこと。思っていた以上にダメージを受けていたみたいで、胸がすごく痛んだ。

「……私は、実行委員会のこと、あまり、わからないので……」

 喉が乾いて、声が掠れる。

 正直な気持ちだった。けれど、すこしだけ後悔も混じっていた。

 ほんとうは、わかりたかった。

 私の知らない先生が、誰かと向き合っているところを、想像するだけで苦しくなる。

「……あぁ、そっか」

 深川先生は、それ以上は何も言わなかった。

 けれどその一言に優しい気遣いが滲んでいる気がして、胸がすこしだけ痛んだ。

「じゃあ、まぁ……とりあえず、生徒会の方は引き続きよろしくな。大変だろうけど、君らには期待してるから」

「……はい」

 そう言いながら、軽く口角を上げて頷く

 先生の背中が、廊下の向こうに遠ざかっていく。

 手に持ったプリントが、じんわりと指の汗で湿っていた。


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