第5章 感情の揺れ
1. 見守る存在
7月の終わり。
教室にはエアコンが効いているはずなのに、妙に空気が気怠く重たい感じがした。
窓の外では蝉が鳴いている。でも音が遠くて、どこか現実味がない。
ある日の2限目。
今日もいつもと同じように、数学の授業は始まった。
黒板に数式を並べる中野先生は、相変わらず無表情で、淡々と声を発する。
指し示すチョークの動きも、感情のこもらない口調も、すべてが静かで冷たい。
私があの日見た涙は、まるで嘘だったみたいに。先生は何も変わらずいつも通りだった。
誰にも心を開かない、あのままの姿で。冷たい目を私たち生徒に向ける。
「この部分、なぜこうなるかわかる人はいますか?」
淡々とした声。板書の手は止めないまま誰かの反応を待つ。
しかし、誰も手を上げない。
みんな先生の方を見ない。
なんだか空気が張り詰める中、先生はひとつ溜息をついて、私の名前を呼んだ。
「……藤里さん」
「え、あ、え?」
名前を呼ばれて、思わず立ち上がる。
「この問題が解けますか?」
相変わらずの無表情で見つめられ、つい心臓が跳ねる。
私は黒板を見つめながら、数式をなぞるようにして答えた。
「あ……えっと。aがこの値なので、bは……xに代入して……」
自分の声が教室に響く。
心はざわついているのに、不思議と口だけは、正確に答えをなぞっていた。
「……正解です」
先生は短くそう言って、次の問題に視線を移した。
褒め言葉もないし、顔色ひとつ変わらない。
でもなぜだか胸の奥に、静かに何かが積もっていく。
その答えの裏側で、音楽室の鍵にも触れられずにいること。あの部屋に入る勇気を、まだ持てないでいること。
数学の問題は解けるのに、先生の涙の意味は、いまだにわからないままだった。
◇
風が入ってくるたび、カーテンが優しく揺れた。
咲良とひとつの机を囲み、向き合う昼休み。
教室の窓からは、ぼんやりと青空がのぞいている。
休憩時間になると、消されるエアコン。入ってくる生温かい風だけが、今は救いのように思えた。
蝉の鳴き声が、まるでBGMみたいに、どこからともなく響いてくる。
夏本番が近づく。そんな気配に、なんだか溜息が漏れた。
「はぁ……あとちょっとで夏休みじゃん。なんか、今年はいつもより長く感じた気がする〜」
咲良が机に突っ伏して、だらけきった声を上げた。
お弁当袋は出しているのに、開ける気力が湧かないらしい。
「ほんとに、ここまでよく頑張ったって、自分を褒めてあげたいよ……期末テストも乗り切ったし……私、えらい……」
「うん、咲良はえらい」
私は小さく笑って、水筒のフタを回す。
ほんのり冷たい麦茶の香りが、鼻をかすめた。
「てかさぁ、莉乃さぁ~」
咲良が上体を起こして、にやにや顔でこちらを見る。
「最近ちょっと思ってたんだけどさ……」
「なに?」
「中野先生、莉乃にだけ……ちょっと優しくなった気がしない?」
「……」
——ピクン、と心の奥が反応した。
「えっ、どういう意味?」
「んー……前より、なんか……話し方とか、雰囲気とか?」
「気のせいじゃない?」
思わず即答してしまった。けど、自分でも驚くほど、声が早く出た。
「うそーん。私、見てたもん。さっきも、授業で莉乃が当てられたとき、先生さ……ほんのちょっとだけ、目が優しそうだったし」
「……」
「それが、あのクラスマッチくらいからじゃないかなーって気がしてるけど。どう?」
クラスマッチ——あの日。スーツ姿のまま、バスケに出た中野先生。
旧校舎の音楽室で、偶然のように再会して。
ピアノの音に引き寄せられて、連弾して、涙を見た、あの夕方。
「……そんなこと、ないよ」
私は笑ってみせたつもりだった。けどそれが自然だったかは、よくわからない。
「そうなのかなー? ……まぁでも、前の先生がちょっと怖すぎたから、あれくらいが普通なのかもね〜」
「うん……たぶん」
咲良は疑わしげに眉を寄せたあと、お弁当をようやく開き始めた。
私もそっと自分の箸を取り出す。
「そういやさ。莉乃、ピアノは? 中野先生とはどうなの?」
咲良の何気ない声に、手が止まった。
なんとなく、咲良の言いたいことがわかる気がして、心が落ち着かない。
「……まぁ、ぼちぼちかな」
「えー、何それ。意味深すぎるんだけど~!!」
なるべく自然に言ったつもりだった。でも、咲良には心の揺らぎがバレている気がした。
ほんとうは、あれから一度も音楽室に行っていない。
扉の前まで行った日もあるけれど、結局、引き返した。
先生の姿を思い出すと、どうしても足が止まってしまう。
なんて声をかければいいのか、それが今もわからないし、私も——どうしたらいいのかわからない。
咲良は不思議そうに首を傾げていた。
けれど、それ以上は何も聞いてこなかった。
その優しさがどこまでも温かくて、心に沁みる。
「あ、今日さ、部活とか生徒会ある?」
「……ううん、休み前だから。今日はもうないよ」
返事をしながら、私は机の角を指先で撫でた。
なんでもないようなフリをしながら、言葉の選び方をすこしだけ慎重にしている自分がいた。
「うぉ、やった! ならさ、放課後うち来る? アイスあるし!」
「え、いいの?」
「うん、もちろん。どうせ母さん今日仕事でいないし〜。ちょっと語ろうや!」
咲良がそう言って笑う。その目がとてもまっすぐで眩しい。
私は小さく頷いた。
すこしだけ、胸の奥に張っていた何かがふわりと緩む。
あの夜のことも、先生の涙も、もちろん誰にも話していない。
でも、話さなくても。こうして隣で笑ってくれる誰かがいる。
それだけで——なんだか救われる気がした。
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