校舎の片隅で、小さな愛の夢を
海月いおり
プロローグ
まるで、
放課後、旧校舎の廊下を歩いていたとき、ふいに耳に届いたのは、誰もいないはずの音楽室から聴こえてくるピアノの音だった。
その旋律は、ひとつひとつの音がまるで息をしているかのように丁寧で、繊細。誰かの感情そのものが、鍵盤を通してゆっくりと流れ出てくるようで、思わず足を止める。
この旧校舎に来たのは、生徒会の仕事でたまたま立ち寄っただけだった。普段は足を運ぶことのない場所だし、この音楽室も授業で使われることはない。
だからこそ、ふいに耳に届いたその音色に、心の奥が静かに揺れた。
〝上手い〟とか、技術的な巧さはもちろん。もっと違う、強い感情が宿っているような——そんな音だった。
それは音楽の先生や、ピアノを習っている生徒の音とも違う。
穏やかで、あたたかくて、聴く人の心をそっと撫でるような旋律だった。
どうしても、その音の主を確かめたくなって、私はそっと音楽室の扉に手をかけた。
ゆっくりと扉を押し開けて、静かに中を覗き込む。
部屋には、傾きかけた陽が柔らかく差し込んでいた。
窓の外から入り込む光が、ピアノと、その奏者をやさしく包んでいる。
弾いているのは——目にかかる黒髪、銀縁の眼鏡、整った横顔。
座っているだけで背の高さがわかるその姿に、私はすぐ気づいた。
その人物は、無表情で無口で、笑わない。
生徒との関わりも最低限で、冗談なんて言ったところを見たこともない。
〝お堅い真面目〟という言葉がぴったりの、とある数学教師だった。
……まさか、あの人が。
言葉も出ず、ただ静かに立ち尽くす。
音に、光に、そしてその姿に——心が静かに奪われていた。
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