瘴華

白玉まめお

夢華

夢を見ました。


 仄暗い森の中を私は歩いていました。泥濘んだ地面を踏み締めて、靴下に水が染み込んでいくのを感じながら、行く手を阻む茂みをかき分け、植物の棘が皮膚を抉っても進み続ける。何かを目指していたのか、あるいは何かから逃げていたのかは覚えていません。しかし、とにかく前へ進もうとしていました。

どれほど歩いたでしょうか。気づけば靴には泥がこびりつき、衣服は嫌な濡れ方をして、剥き出しだった手には細かい傷がたくさんついていました。

突然、目の前を阻んでいた植物が消えました。私は体制を崩し、身体を激しく地面に打ちつけたのですが、そこまで痛くはありませんでした。きっと疲れで感覚が麻痺していたのでしょう。


 顔を上げるとそこには藍色の床が広がっていました。それが紫色の花で覆われた野原だと気づくのには、少しだけ時間がかかりました。ぼんやりとしながらあたりを見渡すと遠くに白い何かが見えて——


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 その日、大学を出る頃には夜の10時を過ぎていました。あれだけ時間をかけたというのにレポートはまるで進まず、仕方がないので学内の図書館を後にしたものの、家に帰った所でその進捗が変化する事はないのだろうと思うとやるせない気持ちになりました。

建物から出れば、たちまちじめじめとした空気が肌に纏わり付きます。ここまで遅くなれば肌の露出は暑さの対策にはもはや役に立たず、湿った不快感は全身を均等に蝕みました。その後も都内とは思えないような人通りの少ない、最小限の街灯で照らされた道をとぼとぼと歩きながらバス停を目指しました。ただでさえ特徴のない住宅街が延々と連なっているというのに、この時間になると家々の違いは曖昧になり、その家路は面白みのない単純なものになります。

 ふと、前方を見ると少し先の地面に何かが落ちていることに気がつきました。街灯の明かりに照らされたそれは小さく、この距離からでは色も形も判別できませんでしたが、何故か妙に目立って見えました。気になった私はそれがある場所まで歩みを早めました。

 それは花でした。おそらく何度も通行人に踏み潰されたのでしょう。かろうじて原型を保ったその花には泥がこびりついて赤黒く汚れていたので、夜であったこともありそれが紫がかった色をしているとわかるまでには幾らか時間がかかりました。


 下手くそな押し花みたいだ、と思ったのを覚えています。


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 それは1人の少女でした。長い黒髪と白いワンピースをひらつかせながら、一面にロベリアが咲き誇った花畑の中を彼女は無邪気に走っています。彼女は帽子を深くかぶっていたので、顔はよく見えませんでした。しかし、彼女が私にとって身近な人物であるという事はわかりました。

 私はその光景を、ただぼんやりと眺めているのでした。私がそうしていると、彼女は走るのをやめ、 こちらを振り返りました。


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 私は幼い頃、姉と2人でよく近所を散歩していました。姉は私よりも9つ上とかなり歳が離れていたこともあり、私は彼女に随分と懐いていました。姉も姉で、小さな妹をよくかわいがってくれていたように思います。彼女は当時の高校生にしては珍しく植物に詳しく、庭の雑草から駅前の花壇に植っている花々まで聞けばなんでも答えてくれました。ある日のことです。いつも通り私は姉に手を引かれながら家を出ました。その日は両親の帰りが遅いこともあり、姉がいつもより遠くまで連れて行ってくれると、私はわくわくしていました。ドアを開けた瞬間に息が詰まるような熱気と眩い光が体を包みます。空はどこまでも青く、大きく膨らんだ雲が遠くの山の向こうに聳えています。わたあめみたいだ、とこめかみをつたう汗を姉に拭われながら思いました。


 しばらく歩いていると、奇麗な花が目に入りました。例の如く姉に聞くと、「あれはロベリアかな。」と微笑んで答えてくれました。ふぅん、と自分から聞いておいて随分と興味のなさそうな相槌を打っても、彼女は優しげに私を見つめているのでした。

 「私はあの花が好きなんだ。ちょうちょうみたいに柔らかい花でさ。」

 彼女はその花を一輪摘み、眺めながらそう言いました。

 私は彼女から手渡された水を飲みながら、小さく頷きました。


 10年以上も前のことを何故、こんなにも覚えているのでしょうか。何故、今の今まで忘れていたことを、突然に思い出したのでしょう。


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彼女はゆっくりと私のところに歩いてきました。目の前に来た彼女は私よりも少し小さく、15歳前後の少女に見えるました。依然として立ち尽くす私に向かって、彼女は手を差し伸べます。私がその手を取ると、彼女は私の手を引いて花畑の中を進んでいきました。花畑は果てしなく、地平線まで淡い紫色に染まっていました。先ほどまで私が傷まみれになりながらかき分けてきたじめじめとした森も、もはや見えません。

どれほど歩いたでしょうか。気づけば靴にこびりついた泥も、じんわりと広がっていた服の湿り気も、植物の棘に抉られた皮膚の傷も。すべて消えていました。

空はどこまでも青く、大きく膨らんだ雲が遠くの山の向こうに聳えています。

「わたあめみたい。」

私がぼんやりとしながらそう言うと、彼女は振り返ってにっこりと笑いました。


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 私たちは小さな公園の木陰で休んでいました。姉からもらったペットボトルの水も、残り僅かとなっていました。私は疲れて眠くなり、うつらうつらと船をこぎ始めました。

その時、姉が私を抱きしめました。突然だったので私は大層動揺しました。

 「ごめんね。」

そう呟く姉の目には、涙がたまっていました。


 気が付くと姉がいなくなっていました。あれだけ澄み渡っていた空の青色は薄らぐらい橙色に変わっていて、膨れ上がった雲はどこにもありませんでした。

 さっきまで姉がいた場所には、空のペットボトルが横たわっていました。


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 私たちは小さな木陰で休んでいました。あれだけ花しか見えなかったのに、いつの間にかそこには木が生えていました。

 「これはロベリアっていうの。」

 彼女は生えていた花を一輪摘み取ってそういいました。奇麗でしょう、と私の目の前に差し出したその花は、少し汚れていました。

 「私はこの花が好きなんだ。ちょうちょうみたいに柔らかい花でさ。」

 ふぅん、と私が返すと、彼女はそっと私の頭をなでました。

 「そろそろ行かないと。」

 彼女がそういうと、いつの間にかさっきまで当たり前のようにそこにあった花畑がなくなり、いつの間にかあたりは室内になっていて、見慣れた扉が目の前にありました。

 私は迷わずその扉に手を掛けました。


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 仄暗い森の中を私は歩いていました。私の家の近くには森といえるようなものはなかったはずなので、私の小さな体がたいして大きくもない林か藪をそう認識しただけなのかもしれません。泥濘んだ地面を踏み締めて、靴下に水が染み込んでいくのを感じながら、行く手を阻む茂みをかき分け、植物の棘が皮膚を抉っても、私は進みました。何を考えて、何を目指していたのか、今となってはよくわかりません。

どれほど歩いたでしょうか。気づけば靴には泥がこびりつき、衣服は嫌な濡れ方をして、剥き出しだった手には細かい傷がたくさんついていました。

 気づけば、目の前にはよく見慣れた扉がありました。どうやら奇跡的に家にたどり着いたようでした。私は家に入り、階段を駆け上がり、姉の部屋の扉に手を掛けました。

 どうやら鍵は開いていたようで、かちゃり、と小気味の良い音を立ててそれは開きました。


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 そこには姉がいました。先ほどまで着ていた白いワンピースではなく、見慣れた白いセーラー服姿の彼女の手首からは赤黒い血が流れだしていて、その目はどこを見ているともわからない虚ろなものでした。彼女が私に説明しながら摘み取っていたロベリアは血だまりに沈んでいて、固まったそれで黒く汚れていました。

 私は暫くその光景を眺めたあと。

 彼女を抱きしめて思い切り泣きました。


 どうして今まで忘れていたのでしょうか。


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いつの間にか私はバス停についていて、目の前にはバスが来ていました。私は手に持っていた一輪のロベリアをポケットにしまいました。

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