第29話:筋肉の福音、他国へ波及する噂

清洲城下の一角で、今川氏真が子供たちを相手に「筋肉教育」を施すようになって、数月が過ぎた。その噂は、清洲に留まらず、遠く離れた隣国にも届き始めていた。


とある宿場町で、旅の商人が声を潜めて話す。「聞いたか? 今川の領地では、子供までが『地面に手をついて身を押し上げる鍛錬』なるものをしているらしいぞ」


彼の隣に座る浪人も、首を傾げた。「ああ、私も聞いた。なんでも、殿様が『筋肉』を崇拝しておるのだとか。腹筋が割れていると、褒美がもらえるらしい」


「はっはっは! 馬鹿馬鹿しい! 筋肉で天下が取れるか!」


男たちは大声で笑い飛ばしたが、その笑いの裏には、今川の圧倒的な強さに対する拭いきれない恐怖と、「その強さの源が、本当に『筋肉』なのだろうか」という強い違和感が隠されていた。彼らの間で交わされる噂は、滑稽な笑い話でありながら、同時に抗いがたい説得力を帯び始めていた。


その頃。


甲斐の躑躅ヶ崎館、武田信玄の居室では、今川からの密偵が持ち帰った報告書を、信玄が険しい顔で読んでいた。そこには、今川領内で子供たちが、氏真の指導のもと、楽しげに筋力トレーニングに励む様子が記されていた。


「殿、今川は完全に気が触れたとしか思えませぬ。敵は、もはや武力ではなく、『筋肉』で我らを笑い殺そうとしているのでは?」


馬場信房が困惑した表情で進言する。信玄の重臣たちも、顔に困惑と、殿への不審が入り混じった汗が滲んでいた。


信玄は、書状を机に叩きつけると、大きく息を吐いた。彼の脳裏には、義元の隆起した胸板が鮮明に蘇る。そして、「おれにつけば、鍛えてやろう!」という、あの理不尽なまでの口上が。


「……馬鹿な。今川義元が、そのような無意味なことをするはずがない」


信玄の声は静かだが、その瞳の奥には、強い危機感が宿っていた。


「あの男の行動には、必ず合理的な裏付けがある。子供にまで鍛錬を施すとは、『筋肉』を、国を支える基盤として、本気で考えているのだ。もし、今川の民が、武士だけでなく、農民、漁師、子供に至るまで、あの異様な肉体を身につけたとすれば……」


信玄の言葉に、重臣たちの顔から血の気が引いた。彼らが想像したのは、鍬を片手に持つ農民が、武将顔負けの筋肉を誇示し、笑いながら畑を耕す光景だ。それは、もはや戦国の常識が通用しない、「悪夢」のような光景だった。


「信玄公、それでは……」


「馬鹿げている、しかし……恐ろしい。これこそが、今川の真の国力となるのかもしれぬ」


信玄は、自らの腕を組むと、深く思考を巡らせた。義元の「筋肉」という異形の理屈は、彼の「武田家の存続」という価値観を根底から揺さぶる、新たな脅威として立ちはだかっていた。


その頃、今川領の寺子屋では、小さな腕で必死に「地面に手をついて身を押し上げる鍛錬」をする子供たちに、氏真が微笑みかけていた。一人の子供が、疲労でぷるぷると震える腕で訴えた。


「せんせい、腕がぷるぷるします!」


氏真は、優しくその頭を撫でると、満面の笑顔で答えた。


「それが、未来の震えだ! 筋肉は、決して裏切らない。さあ、皆の者! 筋肉の未来を掴み取れ!」


氏真の声が、子供たちの笑い声と共に、清洲の空に響き渡る。この日、今川の領内では、子供たちによって、新たな時代の筋肉が誕生した……かもしれない。

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