第4話 時の暗部
「最初の訓練は、過去への潜行だよ」
響が『時の鼓』に手をかざすと、球体の表面に無数の光点が浮かび上がった。それぞれが異なる時代を表している。
「小さな歪みから始める。大きな歴史の流れを変えずに、微細な調整を行うんだ」
織音は緊張しながら頷いた。響と手を繋ぐと、二人の意識が『時の鼓』に吸い込まれていく。
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最初に降り立ったのは、江戸時代の小さな村だった。
「ここで何が起きてるの?」
織音が周りを見回すと、村人たちの動きが妙にぎこちない。まるで人形劇のように、不自然なタイミングで動いている。
「時間の流れが滞ってる」響が説明する。「たぶん、誰かの強い想いが時間を歪ませてる」
二人は村を歩き回り、原因を探した。やがて、一軒の古い家の前で足を止める。中から、女性の嗚咽が聞こえてくる。
「息子を返して……お願い、時間を戻して……」
響と織音は顔を見合わせた。
「母親の悲しみが、時間を引き戻そうとしてる」響が小さく呟く。「息子を失った瞬間を、受け入れられずにいる」
織音は家の中に入った。土間に座り込んでいる中年の女性に、そっと近づく。
「お母さん……」
女性は織音を見上げた。涙で腫れ上がった目に、深い絶望が宿っている。
「誰じゃ、お前は……」
織音は女性の手を取った。すると、その人の記憶が流れ込んできた—病気で亡くなった一人息子、彼への愛情、そして受け入れられない現実。
「お母さんの愛は、確かに息子さんに届いてる」織音は静かに言った。「でも、時間を止めてしまったら、息子さんの魂も前に進めない」
女性の目に、微かな光が戻った。
「そうじゃ……のう……息子は、きっと先で待っとる……」
女性が息子の死を受け入れた瞬間、村全体の時間が正常に流れ始めた。
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「上手だったね」
現代に戻った響が、織音を褒めた。
「でも、なんだか悲しくて……」
「それが調律師の宿命だ。人の痛みに寄り添いながら、時間を正しい流れに戻す」
織音は『時の鼓』を見つめた。その表面に、また別の光点が激しく明滅している。
「あれは?」
響の表情が曇った。
「問題のある時代だ。守り手が……失敗した時代」
「失敗?」
響は躊躇ったが、やがて重い口を開いた。
「すべての守り手が成功するわけじゃない。中には、時間を私物化しようとした者もいる」
織音は震え上がった。
「私物化って……」
「愛する人を救うために歴史を変えたり、自分の都合で未来を操作したり……そういう守り手が現れると、時間は大きく歪む」
響が光点に触れると、暗い映像が浮かんだ。
戦乱の時代。守り手の女性が、死んだ恋人を蘇らせるために『時の鼓』を操作している。その結果、無数の人々の運命が狂い、歴史が混乱していく。
「彼女の名前は瑠璃。強力な守り手だったが、個人的な感情に支配された」響の声が沈む。「結局、調律師だった僕の師匠が彼女を止めるために……」
映像の中で、一人の男性が瑠璃に剣を向けている。彼の目には涙が浮かんでいる。
「師匠は瑠璃を愛していた。でも、時間を守るために彼女を……」
織音は息を呑んだ。
「殺したの?」
響は頷いた。
「それが調律師の最後の責務。守り手が道を外れた時、止める役目も負っている」
織音は響を見つめた。彼の瞳に宿る痛み、そして決意。
「もし私が道を外れたら……響も私を?」
響は長い間沈黙した。やがて、かすれた声で答える。
「僕は……君を失いたくない。でも、時間の崩壊を許すこともできない」
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その夜、織音は『時の鼓』の内部に意識を向けた。物理的な接触ではなく、精神を直接繋げる深い瞑想。
すると、織音は不思議な空間にいた。
無限に広がる星空のような場所。そこに、一つの巨大な存在が浮かんでいる—時間そのものの意識。
『新しい守り手よ』
声ではなく、直接心に響く想い。
『汝は選ばれし者。しかし同時に、最も危険な者でもある』
「危険?」
『汝の心は強い。愛も深い。それ故に、私物化の誘惑も最も大きい』
織音の周りに、歴代の守り手たちの映像が浮かんだ。成功した者、失敗した者、様々な運命を辿った彼女たち。
『特に、汝の友への愛は深い。その者を救おうとする時、汝は道を外れる危険がある』
「美月のこと?」
『見よ』
映像が変わった。美月が何かに苦しんでいる姿。時間の歪みに巻き込まれ、存在が薄くなっていく。
『汝の覚悟が試される時が来る。友を救うか、時間を守るか』
織音は震えた。でも、その時だった。
『しかし……別の可能性もある』
「別の可能性?」
『汝の友もまた、特別な魂を持つ。守る者として覚醒する可能性が』
織音は驚いた。美月が?
『但し、それは汝の選択にかかっている。汝が真の守り手として成長した時、道は開かれるであろう』
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翌日、織音は学校で美月に会った。美月の様子が、明らかにおかしい。
「織音……変な夢を見るの。時計塔の夢……それに、あなたが誰かと一緒にいる夢」
織音の心臓が跳ね上がった。
「美月……」
「私、あなたを失いそうで怖い。なんだか、あなたがどんどん遠くに行ってしまいそうで」
美月の目に涙が浮かんでいる。
「私にも教えて。あなたが抱えてること。一人で背負わないで」
織音は迷った。美月を巻き込んでいいのか?でも、時間の意識の言葉が頭をよぎる—別の可能性。
「美月……もし私が、とても危険なことに関わってるって言ったら?」
「一緒に行く」美月は即答した。「あなた一人じゃ心配だもの」
織音は美月の手を握った。その瞬間、美月の鼓動が織音のそれと共鳴した。
微かに、でも確実に。
「分かった」織音は決意を込めて言った。「今夜、全部話す。そして……もしかしたら、あなたにも見えるかもしれない。千夜町が」
美月は不安そうだったが、頷いた。
「怖いけど……あなたと一緒なら大丈夫」
その時、織音の胸の奥で『時の鼓』が大きく脈打った。まるで、新しい未来を歓迎するように。
でも同時に、響の警告も思い出す—道を外れた守り手たちの運命。
織音は窓の外を見た。遠くに千夜町の灯りがちらついている。
今夜、すべてが変わる。
美月と一緒に、新しい道を歩み始める。
それが正しい選択なのか、破滅への第一歩なのか—
織音にはまだ、分からなかった。
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