第2話 陰鬱な高校生活

 卒業式の日、プールサイドで僕の目に焼き付いたあの光景は、僕の心を深く抉った。

 家に帰ってからも、莉乃の唇が、佐々木の唇に吸い寄せられていく、あのシーンが頭から離れない。ベッドに横たわっても眠れず、食事も喉を通らない日々が続いた。


 両親や妹の瑞希みずきが心配そうに声をかけてくれたが、僕はただ「大丈夫」としか返せなかった。

 でも、何一つ、大丈夫なことなどなかった。



 僕の、春休みは、まるで色を失ったようだった。

 外出する気力も湧かず、部屋に閉じこもってただスマホを眺めるばかり。

中学の友人から連絡が来ても、返信する気になれなかった。

 このまま時間が止まってしまえばいいのに、と何度願ったか知れない。





 あっという間に高校の入学式が訪れた。


 新しい制服に袖を通しても、心は全く浮き立たない。

 むしろ、これから始まる高校生活への重苦しい予感と、莉乃と同じ学校に通うことへの恐怖が、僕を押し潰しそうだった。


 入学式は、中学の卒業式と同じく、僕にとっては感情の伴わない儀式だった。ただ、早く終わってほしいと願うばかりだ。


 翌日、初めてのクラス発表。


 掲示板の前には、新入生たちがごった返している。僕も人混みをかき分け、自分のクラスを探した。

 1年B組のクラス名簿の一番上に自分の名前を見つけ、「よし……」 と呟く。


 安堵の息を漏らしたのも束の間、クラス名簿のその下に視線が吸い寄せられた。そこに見慣れた名前が並んでいた。


 佐伯さえき莉乃りの

 佐々木ささき真吾しんご


 最悪だ。同じ高校なのは承知していたが、まさか同じクラスだとは。しかも、二人揃って。

 僕の胸の奥に、また黒い塊が投げ込まれ、それが波紋のように広がっていく。


 

 教室に入っても、僕の沈んだ気分は晴れなかった。

 ロングホームルームでの自己紹介が終わると、クラスメイトたちはすぐに気の合う者同士で集まり、楽しげに談笑し始める。

 同じ教室にいるはずの莉乃と佐々木の姿は、他の生徒たちに囲まれていて僕の目に入らなかった。それは、ある意味の救いだった。


 僕は相変わらず、誰からも声をかけられず、自分から輪に入ることもできない。


 教室の片隅の席で、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 このまま、何も考えずに、一人、穏やかな時間を……。



 そんな僕の願いはかなわなかった。

 授業中も、休み時間も、僕の視界の端には常に莉乃と佐々木の姿があった。彼らは、僕の存在など気にも留めないかのように、堂々と親密な様子を見せつける。

 休み時間には、机を寄せて顔を近づけ、楽しそうにひそひそと話し合ったり、一つのスマートフォンを覗き込んで笑い合ったりしている。

 佐々木が莉乃の髪を軽く触ったり、莉乃が佐々木の腕を叩いてじゃれついたりする姿は、僕の心を容赦なく締め付けた。


 教室の喧騒が嘘のように、彼らの周りだけが切り取られた特別な空間に見えた。

 その光景を目にするたび、僕の胸には鋭い痛みが走り、まるで心臓が氷漬けにされるような感覚に陥った。

 彼らの眩しさが、僕自身の陰りを一層際立たせる。



 昼休み。賑やかな廊下を、僕は俯き加減で歩いていた。

 食堂へ向かう気にもなれず、屋上で一人で過ごそうかと思っていた、その時だった。


「莉乃、こっち来いよ!」


 明るく、少し強引な声が耳に届き、思わず顔を上げた。


 廊下の真ん中で、佐々木が莉乃の肩を抱き寄せ、楽しそうに笑っている。まるで、莉乃が自分のものであることを周囲に誇示するかのように。

 莉乃も、佐々木の言葉に屈託なく笑い、嬉しそうな顔で佐々木の目を見つめていた。


 そして、彼らは、僕の存在に気づくこともなく、そのまま、食堂へと遠ざかっていった。


 僕は、その場に立ち尽くすしかなかった。



 僕はもう、完全に理解していた。


 中学時代、莉乃が僕に見せてくれた、優しさ。僕の中学生活に彩りを与えてくれていた、あの莉乃の優しい顔と、声は、僕だけに向けられていたものではなかったのだ。

 莉乃にとって、あれは、「普通」の友人に対する態度でしかなかったのだ。僕が勝手に、特別な意味があると誤解していただけだ。

 目の前で、堂々と親密な様子を見せつけられるたびに、僕の心はズタズタに引き裂かれるような痛みに襲われた。



 放課後、部活動紹介のポスターが、校内のあちこちに貼り出されている。水泳部のポスターも、もちろんあった。


「水泳部、入部希望者募集!」


 水泳は好きだ。

 莉乃と出会うきっきになった水泳。


 人と接するのが苦手な僕でも、水の中で泳いでいると、なんだか頑張っている気になれた。

 そして、水泳部には莉乃がいた。莉乃がいたから、中学でも三年間続けてこれた。

 それでも、タイムは伸びず、大会の選手にもなれなかった。水泳部のエースとして、個人メドレーやリレーで結果を残してきた佐々木とは大違いだ。


 この高校で、莉乃も佐々木も、きっと水泳部に入部するだろう。

 あの二人がいる場所に、僕が再び足を踏み入れる勇気は、どこにも見当たらなかった。



 僕は、ただ、その場から逃れるように、下校の道を急いだ。



 新しい高校生活は、始まったばかりだというのに、僕の心は、もうすでに深い絶望の淵に沈んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る