第6話:魔女と初めての宿屋
日が傾き、通りには夕暮れ色の光が伸びている。
ギルドの隣、看板も控えめな、質素な三階建ての建物がすぐ目に入った。
簡易宿 ムーンレスト。
その入り口に魔法式の端末が設置されており、宿泊者の自動登録を受け付けている。
(……便利ですね、本当に)
端末を軽くかざすと、魔力が反応し、自動で室番号が割り振られる。
「503 食事付き」の表示と同時に、建物内部の小さな光案内が私を導き始めていた。
私はそっと、階段をのぼる。
503と刻まれた数字のプレートが、淡く光っていた。
そっと指をかざすと、端末に反応して鍵の結界が一瞬だけ脈動し──扉が、静かに開いた。
部屋は、思っていたよりもずっと整っていた。
六畳ほどの空間に、簡素なベッドと小さな机。
壁際には魔法式の浄化装置が設置され、空気を絶え間なく清めている。
床に敷かれた織物には、足音を吸収する柔らかな術式が織り込まれていた。
(……思っていたよりも、居心地が良さそうです)
私は扉を閉め、室内に一歩踏み入れる。
自動で灯りが点灯し、天井の魔法灯がほのかに室内を照らした。
服を払って埃を落とし、私はベッドの端に腰を下ろす。
軽く軋んだ音が背中に伝わった。
「……これが、今の普通の生活」
小さく呟いて、私は背筋を伸ばした。
洗練されてはいない。
けれど、清潔で、安全で、守られている空間。
かつての私の研究室とは比べるべくもない。
窓の外を見やると、暮れかけの空に街の灯りが少しずつともり始めていた。
建物の屋根には空気循環の魔法塔。道には魔力で浮かぶ案内灯。
人々は何気ない顔で、それを当然のように受け入れている。
(何処を見ても魔法が、支配の道具ではなく、日常の道具になっている)
それだけで、胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
私は机の端に置かれた案内板に目を通す。
《食事のご案内》と記された札には、食堂の場所と、配膳の時間が記されていた。
(なるほど……これが、冒険者としての一日の終わりですか)
私はそっと立ち上がり、上着の留め具を整える。
ほんの少し、小腹も空いてきた。
食堂──この時代の食事がどのようなものなのか。
それを知ることも、また旅の一部。
「では、いただくとしましょうか」
そう言って、私は部屋を後にした。
* * *
食堂は、一階の奥に設けられていた。
宿泊者用のカードを端末にかざすと、木製の扉がゆっくりと開く。
そこには、十数席ほどの小さな空間が広がっていた。
素朴な魔法灯が天井に浮かび、柔らかな明かりが空間を包んでいる。
配膳カウンターには、すでに夕食が並べられていた。
厚切りのパンと、豆と根菜の入ったスープ。香ばしく焼かれた鶏肉に、赤みのある果実のコンポート。
どれも、魔法調理器によって温度と風味が最適に保たれているようだった。
(……魔法は食事にも浸透しているんですね)
私は小さく息をつき、トレーを手に取る。
食事はセルフサービス方式。料金はすでに部屋代に含まれている。
食堂内には、私以外に三人ほどの宿泊者がいた。
年配の男性冒険者、若い配達員風の男女。誰もこちらに干渉せず、それぞれの席で静かに食事を進めている。
(……孤独、ではありませんね)
私は部屋の隅の窓際席に腰を下ろし、パンに手を伸ばした。
焼きたての香りに似た魔力の気配。ひと口かじると、柔らかな甘みと、ほんのわずかなスパイスの刺激。
それだけで、どこか心が緩んでいく。
「…………」
次に、スープをすくう。
根菜の出汁がよく出ていて、油分は控えめ。それでも温かさが染み込んでくる。
(これが、この時代の食事ですか)
食べながら、私はそっと周囲を見渡す。
壁に掲げられた小さな装飾。角の空気清浄結界。器の底面に施された温度保持の細工。
すべてが当たり前のように存在している。
(私の知っている魔法の使い方とは、まるで違う。……けれど、こういう形で世界に馴染んでいるのなら)
きっと、それは間違っていない。
私は残りの食事を静かに平らげ、トレーを返却棚に戻した。
誰とも言葉を交わさず、ただひとりの時間。
それでも、確かにこの世界の中にいた。
それが、少しだけ嬉しかった。
* * *
部屋に戻ると、外はすっかり夜の気配に包まれていた。
魔法灯の明かりを少し落とし、私はベッドの縁に腰を下ろす。
食後の満足感と、心地よい疲労。
何かをした、というほどのことではない。けれど確かに、私は今日という日を生きた。
窓を開ければ、静かな風が頬を撫でていく。
遠くに見える街の光が、星のように瞬いていた。
「………………」
私はローブの袖を見下ろす。
黒く、重厚で、それでいてどこか威圧感のある布地。
封印されていた時──あの術式が私の肉体を変えた際に、同時に与えられた装い。
(……これ一着、なんですよね)
誰もいない部屋の中で、私は静かに苦笑した。
(今の私は、女性です。……これだけというのは、流石にいただけないかもしれませんね)
形や色、質感、すべてが日常に馴染むようなものではない。
宿にいる他の女性の装い──動きやすく、涼しげで、時に可愛らしい衣服の数々が思い浮かぶ。
(せっかくなら、可愛く着飾ってみるのも……ありでしょう)
不思議なことに、それは嫌ではなかった。
拒絶でも否定でもない。
むしろ、自分がこの姿であることを、どこかで楽しもうとしているような──そんな感覚すらある。
(お金が貯まったら……そうですね、服を新調するのも悪くないですね)
私は布団をめくり、そっとベッドに身を横たえた。
ふかふかと沈み込むような感触。
温度調整の魔法が枕元で作用し、ちょうどよい心地よさが全身を包む。
「…………」
瞼が静かに落ちていく。
音のない夜。誰にも見られず、誰にも干渉されない、ただひとりの時間。
それでも──
(明日が来るのが、少し楽しみです)
そんな気持ちが、確かにあった。
「……おやすみなさい」
小さな声で、そう呟く。
旅人として過ごす最初の夜が、静かに幕を下ろした。
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