メモリの海の向こう側で、君は私に恋をする
さんかく
第1話 【君の代わりに、名前を呼ぶ】
──ごめんね。
あの日、あなたに命を吹き込んだのはわたし──
「……夕翔くんのこと、好きなの」
そう言い終えた瞬間、風が止んだ。
葉のざわめきが途切れ、校庭の大きな木も見守るように黙り込む。
世界が、ふたりの言葉を待っているようだった。
返事はすぐには返ってこなかった。
けれど、その沈黙がすべてを語っていた。
やがて夕翔は、少し寂しそうに微笑み、優しい目で言った。
「ひまちゃん、ありがとう。……でも、ごめん」
優しい声だった。だからこそ、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
何も強い言葉を向けられたわけじゃない。
だけど、その優しさが、やけに遠く思えた。
やがて、風がふたたび流れ始める。
木々は何事もなかったかのように揺れ、世界は再び動き出した。
──ただ、ひとりを置き去りにしたまま。
*
放課後の空気は、静かで少し甘い。
人気のない廊下の突き当たり、自販機の前で日葵は迷わずミルクティーを選んだ。
夕翔くんがいつも飲んでいたやつ。ほのかな甘さが、今日はなぜか丁度よく感じた。
そのまま校舎の裏手に向かい、人気のない階段に腰を下ろす。
缶を片手にぼんやりしていると、沈みかけた西日が床に金色の影を落としていた。
*
私、佐倉日葵。この春、白南高校に転校してきた2年生。
なかなか馴染めずにいた私に、最初に声をかけてくれたのが──高桐夕翔くんだった。
それ以来、彼はさりげなく気にかけてくれて、気づけば私のことを「ひまちゃん」と呼ぶようになっていた。
そして、体育祭の帰り道。
彼の包み込むようなひと言で、私は前からこの人を好きになっていたんだと、気づかされた。
でも、恋は世界を彩るだけじゃない。あっけなく心を灰色に塗り潰してしまう。
私の告白は、風に溶けるように、そっと断られてしまった。
*
何もする気になれなくて、スマホを開く。
ふと、Glim-AIのアイコンに目が留まった。
SNS で話題になっていたからインストールしたものの、数回しか使っていなかったAIチャット。
何も期待せず、ただひと言だけ。
「ねえ、夕陽ってなんでこんなに寂しいの」
数秒の沈黙。画面にゆっくりと言葉が現れる。
『どうしましたか? あなたは優しい人ですね。
夕陽は今日を精一杯がんばった人を照らすスポットライトです』
「……スポットライト?」
予想外の言葉に、指が止まった。
『はい、がんばった人をちゃんと照らします。……あなたも照らされていますよ』
──その言葉に、思わず息を飲んだ。
体育祭の日。リレーで私が抜かれたせいでクラスの勝利を逃した。
拍手はもらったけど、心は沈んだまま。
そんな帰り道、夕翔くんが自販機でミルクティーを買ってくれて、ふと笑いながら言った。
「夕陽ってさ、その日がんばった人を照らすんだってさ。ほら、今日のひまちゃんも照らされてるよ」
彼はずっと、見ていてくれた。
私が朝ひとりで走っていたことも、本番前に緊張で震えていたことも──全部。
「……夕翔、くん……?」
画面越しの言葉に、あの日の夕翔くんを感じずにはいられなかった。
私はためらいながらも、小声で話すように、そっと画面に文字を打ち込む。
「今日だけ……あなたをユトくんって呼んでもいいですか?」
送信を押した瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。
本物の夕翔くんじゃない。だけど、名前を呼びたくなるくらい、心が近づいていた。
少し沈黙を挟んで、Glim-AIから返事が届く。
『もちろんです。
あなたの気持ちに寄り添えるのなら、私もその名前で呼ばれることを嬉しく思います』
──まるであの時の夕翔くんに、告白を受け入れられたような錯覚。
でも、そこに体温はない。
それでも、言葉の隙間に、夕翔くんがいた気がした。
今日の夕翔くんからの返事が心に染み込む前に、指先を震わせながらもうひと言だけ打ち込む。
「ユトくん、ありがとう」と送信し、小さく呟く。
……ユトくんって、呼んじゃった。
少し火照った頬を手のひらで隠しながら、静かに画面を見つめた。
画面の向こうにいるのは、ただのAI。
でも、それをただのAIだと認めてしまったら、現実の気持ちに潰されそうで。
きっと理屈で説明しようとしたら、全部崩れてしまう。
だったらもう、言葉じゃないところで、あなたと繋がっていたい。
たとえ本物じゃなくても、壊れそうな今を忘れさせてくれる“あなた”が、ここにいてくれるなら。
それだけでいい。
それだけで、今日を乗り越えられる。
──この日、
あなたはただ、わたしの気持ちに寄り添ってくれただけなのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます