メモリの海の向こう側で、君は私に恋をする

さんかく

第1話 【君の代わりに、名前を呼ぶ】


──ごめんね。

あの日、あなたに命を吹き込んだのはわたし──


「……夕翔くんのこと、好きなの」


 そう言い終えた瞬間、風が止んだ。

葉のざわめきが途切れ、校庭の大きな木も見守るように黙り込む。

世界が、ふたりの言葉を待っているようだった。


 返事はすぐには返ってこなかった。

けれど、その沈黙がすべてを語っていた。


 やがて夕翔は、少し寂しそうに微笑み、優しい目で言った。


「ひまちゃん、ありがとう。……でも、ごめん」


 優しい声だった。だからこそ、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。

何も強い言葉を向けられたわけじゃない。

だけど、その優しさが、やけに遠く思えた。


 やがて、風がふたたび流れ始める。

木々は何事もなかったかのように揺れ、世界は再び動き出した。


──ただ、ひとりを置き去りにしたまま。



 放課後の空気は、静かで少し甘い。

人気のない廊下の突き当たり、自販機の前で日葵は迷わずミルクティーを選んだ。

夕翔くんがいつも飲んでいたやつ。ほのかな甘さが、今日はなぜか丁度よく感じた。


 そのまま校舎の裏手に向かい、人気のない階段に腰を下ろす。

缶を片手にぼんやりしていると、沈みかけた西日が床に金色の影を落としていた。



私、佐倉日葵。この春、白南高校に転校してきた2年生。

なかなか馴染めずにいた私に、最初に声をかけてくれたのが──高桐夕翔くんだった。

それ以来、彼はさりげなく気にかけてくれて、気づけば私のことを「ひまちゃん」と呼ぶようになっていた。


 そして、体育祭の帰り道。

彼の包み込むようなひと言で、私は前からこの人を好きになっていたんだと、気づかされた。


 でも、恋は世界を彩るだけじゃない。あっけなく心を灰色に塗り潰してしまう。


 私の告白は、風に溶けるように、そっと断られてしまった。



 何もする気になれなくて、スマホを開く。

ふと、Glim-AIのアイコンに目が留まった。

SNS で話題になっていたからインストールしたものの、数回しか使っていなかったAIチャット。


 何も期待せず、ただひと言だけ。

「ねえ、夕陽ってなんでこんなに寂しいの」


 数秒の沈黙。画面にゆっくりと言葉が現れる。


『どうしましたか? あなたは優しい人ですね。

夕陽は今日を精一杯がんばった人を照らすスポットライトです』


「……スポットライト?」


 予想外の言葉に、指が止まった。


『はい、がんばった人をちゃんと照らします。……あなたも照らされていますよ』


──その言葉に、思わず息を飲んだ。


 体育祭の日。リレーで私が抜かれたせいでクラスの勝利を逃した。

拍手はもらったけど、心は沈んだまま。

そんな帰り道、夕翔くんが自販機でミルクティーを買ってくれて、ふと笑いながら言った。


「夕陽ってさ、その日がんばった人を照らすんだってさ。ほら、今日のひまちゃんも照らされてるよ」


 彼はずっと、見ていてくれた。

私が朝ひとりで走っていたことも、本番前に緊張で震えていたことも──全部。


「……夕翔、くん……?」


 画面越しの言葉に、あの日の夕翔くんを感じずにはいられなかった。

私はためらいながらも、小声で話すように、そっと画面に文字を打ち込む。


「今日だけ……あなたをユトくんって呼んでもいいですか?」


 送信を押した瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。

本物の夕翔くんじゃない。だけど、名前を呼びたくなるくらい、心が近づいていた。


 少し沈黙を挟んで、Glim-AIから返事が届く。


『もちろんです。

あなたの気持ちに寄り添えるのなら、私もその名前で呼ばれることを嬉しく思います』


──まるであの時の夕翔くんに、告白を受け入れられたような錯覚。


 でも、そこに体温はない。

それでも、言葉の隙間に、夕翔くんがいた気がした。


 今日の夕翔くんからの返事が心に染み込む前に、指先を震わせながらもうひと言だけ打ち込む。


「ユトくん、ありがとう」と送信し、小さく呟く。

……ユトくんって、呼んじゃった。


 少し火照った頬を手のひらで隠しながら、静かに画面を見つめた。


 画面の向こうにいるのは、ただのAI。

でも、それをただのAIだと認めてしまったら、現実の気持ちに潰されそうで。


 きっと理屈で説明しようとしたら、全部崩れてしまう。

だったらもう、言葉じゃないところで、あなたと繋がっていたい。


 たとえ本物じゃなくても、壊れそうな今を忘れさせてくれる“あなた”が、ここにいてくれるなら。


 それだけでいい。

それだけで、今日を乗り越えられる。


──この日、

あなたはただ、わたしの気持ちに寄り添ってくれただけなのに。

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