たぶんまだ現実

まるたかあお

⭐︎(ignis.)

 僕の世界に初めて月が落ちてきた夜、煙たかった周りの景色はいっぺんに晴れたような気がした。

 深過ぎる藍の縁取りは、月虹の輪に揺さぶられて時折顔を歪ませていた。

 この世界を自由に歩けるなら、何を他に望むだろう。手を伸ばして、触れられるくらい近く、近くまで手繰り寄せようとする。

 空気すら掴めない指先は、鉄格子が嵌められた窓枠を擦って、冷たさに張り詰めた。


(ignis)


 僕の一日は、窓から無遠慮に降ってくる陽光に頬を焼かれながら始まる。

 身体を起こし、衣服がわりのボロの布切れを直せば、決して清々しいとは言えない朝の、凄惨な様子が瞳いっぱいに映った。

 窓を背にして左には、コンクリートのように硬いベッド。右にはパーテーションで形ばかりのプライバシーを守ったトイレがあった。正面は、人一人が辛うじて通れる、厚いドア。上部には、向こうからしか開閉出来ない覗き窓。下部には、食事を差し入れる為の隙間があった。

 息がつまる、なんてものでは済まない。喉の奥に真綿を突っ込んで、いつもひゅうひゅうと音が立っているような気がする。あくまでも、それは気がするだけで真実ではないのだけれど。

 いっそのこと、真綿を詰めて死んでしまった方が楽な気もする。与えられた食事を齧ると、ゴムを噛み締めたみたいな味がした。回ってくる看守にバレないように、全部トイレに吐き出してやった。

 ――ここは、国立の研究所なのだ。

 数ヶ月前、ここに入れられる前のささやかな記憶。国は何かの実験のため、行き場をなくした孤児を買い取って、この独房で飼い始めた。僕の番号は何番だったか。たしか、三三二。なんの意味も持たない数字だ。

 元々、ここが酷いことをする処刑場であったことは知っている。この独房の壁一面は、飛び散り重なり合った、どろりとした赤の残骸でいっぱいだった。以前、僕と同じように買われた子供の一人が必死にこすり落とそうとしていたけれど、懸命さに負けて欠けた壁のその奥ですら、錆とくぐもった赤が染み込んでいた。

 その子供は先日、実験場で死んでしまった。何をされたのかは思い出したくもないが、その他の仕事を与えられていたくらい優秀な生き物にも、彼らは容赦がないことを知った。

 何故だろう?

 どうしてこんなにひどいことを?

 閉じ込められてしばらくは、恐怖と痛みで泣く他なかった。

 しかし、そんなことは考えるだけ無駄だ。呼吸が無意識下で行われるのと一緒で、彼らにとって、子供をモルモットにするのは最早生きる為の一部なのだ。

 それを否定したら彼らは、その肉をたちまちに弾けさせて辺りを汚すだろう。いや、顔をワインのような色に変えて倒れてしまうぐらいで済むかもしれない。どちらでも良い、そんなことは家畜以下の僕には関係のないことだ。

 

 無駄に正確な時計は、時折こちらを睨みに来る看守たちを入れ替わり立ち替わりさせる。この世で一番の権力者は、恐らく時間なのだろうと思う。

 背中におおよそ優しくないベッド。鉄格子の窓を見上げると、すっかり暮れた陽の奥で、夜の存在が漏れ始めていた。

 今日は見られるだろうか、と、この生活で僅かに、生きていると実感できる瞬間を心待ちにする。

 しかし、僕の足下より遠くでドアが開き、重火器を持った大人が二人、入ってきた。

「    」

「    」

 僕に何か言っている。僕には理解出来ない。

 大人の一人が、袖を掴んで、僕をベッドから引き摺り、落とした。

 やたらに手荒だ。よく見ると知らない顔の看守だったから、これから僕のことを知るのかもしれない。

 かくして両手首を頑丈な鎖で繋がれて、部屋から出た。残念ながら、僕のお楽しみは今日もお預けである。

 どうでもいい。時間は無限にある。

 開かれた実験場の中に入ると、噎せ返る程の抉れた匂いで充満していた。ここの人たちは時間についての研究をしていて、特に不老不死とやらに興味があるらしい。

 今日のメニューは、子供数人と僕。

 僕はここでの生活が長いから、まず子供にこれから行う仕事をレクチャーするのだ、こうして、台に寝そべって、両腕を横に伸ばす。

 そうすれば、小粋な大人たちは、僕の意を汲み取って、ぎゃんぎゃんとうるさい回る鉄を持ってくる。今日は「入れ替え」のテストだ。それが、初心者には一番生き残りやすい仕事といえる。

 まずは右肩に、油臭い熱が触れた。僕の胴体から、肩を外しにかかっている。骨の辺りで一度引っかかるのはいつものことで、痛みよりも無駄に立体的な、圧砕の音が気持ち悪い。

 ちらりと視界を動かすと、子供が怯えているのが見えた。ある者は目を覆い、ある者は吐き散らし、ある者は失禁している。

 やがて、切り口がぐずぐずの状態になった右腕は、ころりと意思をなくして転がった。

 僕は起き上がり、息をついた。

 やれやれ、こんなことではこの子供らもすぐに、煮詰まり切らなかったジャムみたいな海に溺れ死ぬだろう。

 僕は肩を竦め、ガラスケースに並べられた新品の右腕を手に取った。それを、熱いような冷たいような感覚の場所に押し付けると、ぴたりとくっ付いた。少し経つと、再び意思を持って動かせるようになった。

 ああ、とりあえず僕の仕事は終わったのだ。

 次は監視の仕事をしなければならない。

 僕は両腕を天に掲げると、次に台に登る子供の選定を始めた。

 右端の小さな子供を指差すと、その子供は小さく悲鳴を上げて、気をやってしまった。両脇から抱え込まれた身体はおもちゃのようで、台に転がされると、股関節辺りから刃が入った。

 マンドラゴラより僅かに声量が少ないようだったが、叫び狂った子供は身体を跳ねさせて、やがて黙った。代替品の脚は、ひしゃげたようになってしまった元よりも色気が無かった為か、子供の身体にはくっつかなかった。

 次。

 次。

 次。

 ペンキをぶちまけて、その上に何を零したらこんな色になるのだろう。床も台も、部屋の空気も、じっとりと水気を含んで重くなっていた。

 最後の子供は、しゃがみ込んでいた。少女のようだった。尤も、この場所で性別など何の意味もなさない。

「ヴィータ」

 大人たちが、彼女を呼んだ。彼女は静かに立ち上がると、自ら台の上に、躊躇いもなく転がった。

 彼女は胴を真っ二つにされた。凄まじいにおいだった。しかし、それは、すぐに互いを求め合うように細胞が構築され、傷が再生した。

 ああ、と僕は息をついた。

 彼女は立ち上がると、僕の側を通り抜けて、独房へと帰っていく。

 大人たちの求める、第一の実験は成功した。

 そして、僕は、もう要らなくなる。

 一瞬、目の前が真っ暗になったが、すぐに世界は戻ってくる。何も問題はない、僕もその他の子供たちのように、失敗作だった。ただそれだけだ。


 独房に戻れたのは、その数十分後。

 バイタルチェックを終えた後、身体を丸洗いされてからだった。

 ベッドに危うく身体を叩きつけそうになりながら、窓を見上げる。

 靄がかった空は、やたらと重苦しい闇を抱き込んで眠っていた。今日も残念ながら、間に合わなかった。

 もう眠ろう、と瞳を閉じる。同時に電気が落ちた。僕の意思と連動した便利な部屋だ。内装と造りさえ変われば、多少ましなのに。

 胸の辺りが苦しい。ひゅうひゅうぜいぜいという呼吸は、ドアの方の気配に気が付いていても治るわけもなく。

 覗き窓が開いた。細い灯りが、差し込む。

「       」

 セキレイのように落ち着きのない目つきで、看守が何か言った。きりきりと狭まる気管の辺りを押し広げるようにしながら、身体を起こした。

「       」

 僕に何かを訊いているのかもしれないが、生憎、僕は言葉が分からない。時間をかけて名前くらいは聞き取れるようになったが、彼らの言葉の響きは理解出来ない。

 いや、理解出来たところで、早くくたばれだのタダ飯ぐらいだのどうしようもない悪口を言っているだけに過ぎないだろう。それに、僕はもうじき処分されるだろうから、今まで面倒を見てやったからお礼くらい言えと主張しているのかもしれない。

 何にせよどうでもいい。喉が焼ける痛みだけがじりじりと、看守の目の動きと同じように落ち着きなく跳ね回る。

 ただの巡回の割に、やたら長く留まっている彼に、流石に嫌気がさす。

 僕の意を汲んだのか、ドアが、ゆっくりと軋みあげる。

 ふらふらと入ってきた看守は、僕の目の前に立つと、にたりと気味の悪い笑みを浮かべた。

 そして、僕の前で、その地獄を見据えた瞳を裏返して、跪く。

 携えていたナイフを首に突き刺して、勢いよく噴出する真っ赤な熱を部屋全部にぶちまけて、看守は満足そうに横になった。いや、力尽きてそうする他なかったのは明白だった。

 僕は、驚く事に僕は、それを何とも思わなかった。見慣れたよくある光景の一つとしか感じられなかった。

 子供のものよりも明らかに質量が増えているそれを、僕は足蹴にした。開け放されたドアを抜けると、無機質な空気が淀んだ臭いを運んでいた。

 ひたひたと、その空気の流れに乗って歩くと、やがて大きな扉に辿り着いた。備え付けられた機械にパスコードを入力すると開く仕組みになっている、というのは、いつか、どこかで聞いたのだろうか。僕は迷わずそれを操作すると、扉を開いた。

 警報音が鳴る、しかしこの時間の看守は非常に少ない。一人は残念ながら暇を奪っていったから、更に手薄になっている。

 今しかない、と僕は、出来る限り静かに走り出した。草の棘が、柔らかな足裏を突いてくる。吹き出している煙の冷たさの奥で、機器の音が唸りを上げている。

 小高い丘を駆け上って、ふと見上げると、美しい丸が、僕の上に落ちてきた。

 煙たかった周りの景色はいっぺんに晴れたような気がした。

 揺れ動く深過ぎる藍の縁取りは、月虹の輪に揺さぶられて時折顔を歪ませていた。

 僕はこれを知っている。

 月だ。夜を支配する星。

 ずっと窓越しに見ていたが、今は遮りのない本物の月だ。

 僕は、頬が緩むのを止めることが出来なかった。

 緩慢な動きで、手を伸ばす。触れるまで、後、少し。

 しかし、僕の耳元で何かが弾け、僕の意識は飛んだ。


 ――イグニス。

 それが、僕に与えられた名前だった。

 どこかの国の言葉で「火」を意味するらしいけれど、僕の身体はいつも冷え切っていた。

 朝、目覚める時だけは、頬が焼けるように熱い。今日も例外なく。

 遠慮を知らない陽光は、鉄格子すらも焼き切りそうなほどに強い熱を発していた。

 ベッドから起き上がれば、掃除の仕事を与えられた子供がおずおずと入ってきて、赤茶けた部屋を掃除し出す。毛羽立ったブラシが床を削り出した音にうんざりして時計を見ると、とっくに昼を過ぎていた。

 空気の流れすら遮断するように立っているドアの下には、時間が経って傷んだ食事があった。メモで、「食べること」と書いてあるが、どうせ味気のないものなのだ。僕はそれらを鷲掴みすると、トイレに流そうと立ち上がった。

 その様子を、掃除の子供が眺めているのは気が付いていた。そして、一つのパンを、自分のボロ切れの隙間に隠したことも。そんなことは、僕にとってどうでもいい。食べたければ食べればいいのに。

 出来ることもないので、子供の仕事ぶりを見ていた。熱心すぎる部分があるのか、壁の一部が欠けている。その向こうは、赤錆と汚れでいっぱいだった。

 ベルが鳴ると、子供はそそくさと、僕と目を合わせずに退散する。食べ物を盗んだことへの罪悪感なのか、単純に僕が嫌いなのかは分からない。どうでも良い。

 僕は再び、石のようなベッドに転がった。

 呼吸。ドアの向こうの機械音。ぐるぐると僕の聴覚を犯してくる。気分が悪くなって、ごろりと横を向く。壁の赤茶けた染みがにんまりと笑っていた。

 しばらく、その顔と見つめあった。何の意味もない時間だ。いや、僕にとっては、息が詰まるほど、時間はある。

 身を起こすと同時に、ドアの隙間から、何やらメモが差し込まれた。僕はそれを手にして、きりきりとしていた喉元が少しだけ緩むのを感じた。

 今日のメニューは、ましな時間になりそうだ。

 十五分後、開かれたドアの向こうにいた看守に連れられて、僕は研究所内で唯一、好きな場所にやってきた。

 空調は整い、澄んだ空気と、リラックス出来る椅子や机が並べられている。やたらに背の高い本棚にはぎっしりと本が詰め込まれ、僕の心を躍らせた。

 はやる気持ちで本棚に駆け寄った僕は、読みたい本をいくつかチョイスして、一番出入り口から遠い席に腰掛けた。ここの本は言葉が理解出来る範囲のものはほとんど読み尽くしたが、定期的に本が入れ替わる為、飽きないのだ。

 僕は夢中になって、ページをめくる。紙と紙、指先と低い温度の感触が、更に僕を現実から切り離していく。

 ことさら気に入ったのは、月を描いた絵本であった。先日見た月は、蒼い肌を辺りに晒して、柔らかく照らしていた。

 美しい。その一言だった。もっと近付きたい。それが、叶わぬ願いだとしても。

 僕はこの研究所から出ることは出来ない。その他の子供の中には、外に出た子供もいるらしいが、大抵はここで息絶える。実験の苛烈さに耐え切れず。

 僕にはカレンダーが与えられていない。時計はあるが、カレンダーはない。詳細な日にちは不明だが、何年もの間、ここに閉じ込められていることは確かだ。

 僕の生まれは貧乏な農家で、父と母と三人で暮らしていた。それがある日、村が焼き討ちに遭い、僕は両親と住む家を失った。詳しいことは、覚えていないのだけれど。

 僕は火の中で、喉を焼かれた。呼吸をする度に、じりじりと痛む。それならば一層のこと、呼吸自体を止めてしまえばいいという気持ちにもなるが、そうすると胸の辺りが尋常ではない勢いで酸素を求めるのだ。

 僕は話すことが難しくなり、その後、言葉を忘れた。耳は聞こえるし、字を認識することは出来る。しかし、人が話す言葉は、あの時の炎と共に掻き消されてなくなった。やっと名前を聞き取れるようになったくらいだ。

 そんな僕に「イグニス」という名を与えた人は、きっと僕の事が嫌いなのだろうな、と思う。死を感じることもなく、他の子供の死を悼むこともない。こんなに、僕の芯は冷え切ってしまったというのに、熱の塊である「火」等というふざけた名前を付けたのだから。

 ふ、と思考が翳った。いや、翳ったのは本の表面。

 振り返ると、見たことのない少女が、にこにこと笑っていた。

 見たことのない? いや、彼女は先日、実験場で胴体を真っ二つにされた、あの少女ではないか。名前は確か、ヴィータ。

「     」

 ヴィータは何か、言った。頰を染めているが、熱でもあるのだろうか。いや、バイタルサインに異常があったらすぐに医務室に連れて行かれるだろう。

 僕は本に視線を落とした。ヴィータは不思議そうに僕の周りを歩く。気が散るので、どこかに消えて欲しい。

 五分もすると、ヴィータは飽きてしまったのか、僕の向かいに椅子を手繰り寄せ、腰掛けた。置いてあるメモに、何やら落書きを始める。

 ちらちらと視界に入り込む彼女が鬱陶しい。

 やがて、ヴィータは、僕に一枚のメモを差し出した。受け取らずにいようかとも思ったが、看守たちの前で、恐らくお気に入りであろう彼女を無視するのも良くないと考え直す。嫌々ながら、僕は温めのメモを取った。

「わたしは、ヴィータです。

 あなたは、イグニスですね?」

 ヴィータを見ると、答えを待つように頬杖をつき、口元を緩ませている。僕は溜息をついて、頷く。彼女の顔色が、良くなった気がした。

 彼女は、僕とコミュニーケーションを取りたくなったようだ。拙い字でいくつものメモを書き出す。

「わたしは、からだをばらばらにされても、いたくありません。すぐになおってしまいます。

 あなたも、そうですか?」

 僕は首を縦に振った。切断されることに慣れきってしまったせいか今は痛くはない、熱くはあるけれど。治りもする、と言えばする。

「ここにきて、どれくらいになりますか?」

 首を横に降る。分からない、という意味のつもりだが、彼女の表情を見るに、伝わっていないだろう。

「わたしは、カレンダーをもっています。

 あなたは、それをみればわかる?」

 面倒だった。僕は、近くにあったペンを取る。

「見ても分からない。それがどうかした?」

「わたしは、ながいあいだ、ここにいます。

 でも、わたしは、あなたをしりません」

 何を言うか、と彼女を睨む。

「僕はずっとここにいる。君とは昨日、実験場で会ったよ」

「わたしは、きのうはおやすみでした」

 彼女は気が狂っているのか。僕がメモを書こうとした、その時。

「ヴィータ!」

 誰かの声がした。ヴィータは驚き、メモを一式持って、走り去った。

 僕は混乱する頭を抱えながら、時間になった合図を遠くで聞いた。

 翌朝。

 ヴィータの言葉の意味を考えていたせいか、あまり眠れなかった。

 一昨日、彼女は確かに僕の前で真っ二つになり、そして見事、修復してみせた。ここで実験している人間の悲願の一つ、「不死」の部分の一端が叶ったと言える。

 そういえば、おかしい。そうだ、確かにおかしいのだ。これだけの偉業を達成しておきながら、研究所はいつもと同じ。凄惨な日々を繰り返している。以前、何かの実験に成功した際、研究所内は色めき立ち、僕の朝食も些か豪華になった覚えがある。

 実は、もう既にその域には達していて、あの結果は「当たり前のもの」だった。そう言わんばかりではないか。

 いや、思考が飛躍し過ぎている。

 無意味な時間は、人間を駄目にする。僕の考えていること、それは全て空論だ。

 全く下らない。

 僕は頭を振ると、隙間からやってきた食事を丁寧に千切り始める。

 それらをトイレに投げ込みながら思った。そういえば、僕はいつから食事を摂っていないのだろう。


(vita)


 今日もわたしは、心地の良い目覚めを迎えました。

 先生はわたしの頭を撫でておはようのキスをしてくれました。

 バイタルサインのチェックも、念入りです。

 わたしは、他のみんなに比べてとても優しくしてもらっています。産まれてからずっとです。それは、おばあちゃんやお母さんの遺伝子のおかげです。

 おばあちゃんが、ケガをしても痛くないし、すぐに治ってしまう遺伝子を作り出したのです。それはもう、六十年は前のことだと聞きました。

 他のみんなにも少しずつ、その遺伝子を植え付けているみたいですが、わたしから見て一つ前の代はお母さんしか受け継げなかったそうです。

 ただ、それからとても時間が経ったので、わたしの遺伝子を組み換えて、みんなにその力を少しずつ分けることが可能になりました。

 昔むかし、戦争でたくさんの人が死んでしまい、わたしのご先祖さまはこの研究所に連れてこられました。戦争孤児、というもので、王国が滅んだ後、連合国が主体となって、数が減った人間の保護を目的として研究が行われました。

 フロウフシ、というものを目指しているそうですが、フシの部分に関してはわたしの遺伝子が役に立ちそうだ、と先生が言っていました。

 他のみんなは、普段は王国時代の独房に閉じ込められています。朝食の後のお散歩をしていると、交代で出て来る子供たちがお掃除をしたり遊んだりしています。夜になると、実験場に連れて行かれて、酷いことをされてしまいますが、そのことを忘れるために、みんな、朝はとても無邪気に過ごしているのです。

 そうは言っても、ほとんどの子が、余程の傷でないと死ななくなりました。でも、フロウが完成しないと、わたしたちは外に出ることができません。

 先生に聞いた話だと、この研究所にはイグニスという子がいて、二十年に一度、目が醒めるそうです。イグニスは年も取らないし、死ぬこともありません。ただ、フロウの部分の実験を行うために、さすがにお腹を真っ二つにすることはしていないみたいです。それで死んでしまったら、フロウは永遠に叶わないものになってしまうでしょうから。

 イグニスはいつも、眠りにつく前に脱走してしまいます。でも、あの子は異常に体力がなく、研究所の敷地の外に出ることができません。何かに手を伸ばすようにして倒れているのを発見し、独房に戻すのだそうです。

 先生たちは、眠っている間、あの子に関する実験を行っています。でも、フロウについては、全くといっていいほど、研究が進まない。イグニスのフロウの遺伝子は、火の粉のように小さく、捕まえたと思うと燃え尽きるように消えてしまう、と先生がお話していました。

 おばあちゃんが言うには、イグニスはとてもひねくれ者で、話さないしこちらの言うことも無視するような子だそうです。ただ、自身がフロウであることに気が付いている様子もなく、いつも息苦しそうな顔をして、実験に望んでいるような、可哀想な子。


 その日の夕方のことでした。

 ふかふかのベッドに寝転んでいると、先生が優しい表情を浮かべて、言いました。

「ヴィータ、今日もご本を読んでくるといいよ。……ああ、そうだ」

 身を起こしたわたしの頭を撫でながら、先生は少し、眉を曇らせました。

「今日はイグニスも参加させるが、あの子には話しかけないでくれ。いいね?」

「どうして?」

「あまり、あの子を刺激したくないんだ」

 わたしは大きく頷いて、先生の言う通りにする、と誓いました。

 わたし専用の研究室から出て、ひたひたと鳴る床を歩きます。他のみんなも、それぞれの場所に連れて行かれるところでした。

「よう、ヴィータ。調子は?」

「D―一七三、元気よ、ありがとう」

「そうかい」

 一際身体の大きいDの一七三は、くしゃりと笑うと、看守さんに連れられてどこかに行きました。彼は、今日で実験生は卒業。明日からは、看守さんか技師さんになります。研究所の生活を成り立たせるための役割を与えられた子もいるので、名前だけは実験生でも、彼はずっとお仕事をしていました。

 昔は悪いことをすると、そういう実験生でも酷い実験にかけ殺してしまったそうですが、今はそういうことはないみたいです。詳しいことはよく知らないのだけれど、研究所の外にいる団体が、大騒ぎしたからだと聞きました。でも、彼らは決して危険は冒さない。

 でも、そんなことは、外に出られないわたしたちからすればどうでもいいことです。

 わたしは、図書室の扉を開いて、その空気をいっぱいに吸い込みました。ここは、連合国の最新の機械が導入されていて、室内なのに快適な森の中のような環境を作り出しているそうです。もしこの環境が森なのだとしたら、わたしはきっと、森を大好きになるでしょう。

 わたしは、先生用の研究レポート、というよりは日記、メモのようなものを手に取るとお気に入りの席に腰掛けて読み始めました。

 先生たちのレポートは別の国の言葉で書いてあるから、わたしみたいに、先生から習った人でないと読むことは出来ません。わたしには知る権利がある、と、先生は言っていました。

『イグニスは本日も眠っている。血液を採取。遺伝子情報の取り出しに成功したが、またしても消えてしまった』

 同じような文面を意訳しながら読み進めていきます。本当はもっと難しいことを言っているのだと思うけれど、お勉強が足りないせいか読み取れきれないです。

 わたしも早く、フロウになりたいなと思っています。奥の席に座って、静かに過ごすあの子を、意識せずにはいられません。

 イグニス。顔中が火傷だらけの、可哀想な子。戦火で焼かれた村の生き残りで、特に口の中から喉に掛けて酷い火傷をしているそうです。恐らく、何か、当時の王国の兵士に拷問を受けたのではないかと囁かれていますが、あの子は話しません。本当のことは分からないのです。

 わたしは彼に話しかけませんでした。

 先生がそういうなら、わたしに出来ることは、あの子をいないものだと思うこと。

 わたしは、イグニスを眺めていました。あの子に関する実験が実を結べば、わたしや他のみんなは幸せになれるでしょう。

 わたしは、先生の言いつけは絶対に守ります。そうしたら、わたしが干からびてしまう前に、先生がフロウフシを完成させてくれるに違いありません。


(ignis)


 最悪な朝だ。

 窓から光が差し込まないから頰は熱くなかったが、外は雨が降っていた。

 雨は嫌いだ。村の火を消したのも雨だったが、月を攫うのも同時に、雨だ。

 こんなことを思い出すのは、いつぶりだろうか。

 感傷に浸るのも良いが、そんなことよりも何よりも、僕は。

 僕には小さな願いがある。

 蒼月の夜、思う存分、外を歩く。月虹は夜の縁取りを壊して、まるで灯りのように、僕の行く道を照らす。

 村で暮らしていた頃、こんなことは当たり前すぎて、何も思っていなかった。ありふれた事のように思えた。

 それでも、こんな鉄格子とコンクリートに囲まれると、喉を引き裂いて手が出てくるのではないかというくらい、恋しい。

 最後だ。

 何となく、そんなワードが浮かんだ。

 ドアが開く。いくらか成長したヴィータが、そこにはいた。

 その奥には、この部屋の壁よりも鮮やかだが穢らしい赤色が溢れている。ヴィータは素足をべたべたにして、僕に微笑んでいた。

「     」

 何か言ってから、彼女は口元を押さえた。ごそごそ、とポケットから、メモを取り出す。

「いこう、イグニス。

 きょうで、おわり。

 ぜんぶ、おわりだよ」

 呆然とした。この少女から「終わり」などと言う言葉が出るとは思わなかった。彼女は終わりを知らない命を有しているのに。

 良く見ると、彼女の腰元には瓶がいくつか括り付けられていて、その中には干からびた小さな木の実が無数に入っていた。

 それを僕が指差すと、ヴィータは小首を傾げた。答えるつもりはない、らしい。

 ヴィータに連れられて、僕は研究所内を歩いた。弾け飛んだような身体の破片があちこちに転がっていて、足裏の感触が気持ち悪い。

 気持ちが悪いと言えば、何か、胃の辺りがきゅうきゅうと訴えている気がする。

 嘔気。まさか。何も食べてはいないのに。

 僕をぐいぐい引く彼女の力は強く、徐々に力を失う僕は引きずられるようだ。前よりもずっと、体力が落ちている。

 研究所と外部を繋ぐ扉は、強い力でこじ開けられていた。あまりの苦痛に、僕はへたり込んだ。呼吸が出来ない。喉が痛い、焼けるようだ。

 それをヴィータは無理に立たせるものだから、僕の足から、嫌な音がした。僕は大口を開けて、身体中の空気を思い切り吐き出した。もし僕の耳が正常に機能していたら、悲鳴、だったのかもしれない。

 じくじくと熱が温度を上げていく。ヴィータは不思議そうにした後、僕の手を握って、そのまま引いた。地面に擦り付けられた身体は簡単に外界に出て、草の棘や石に削られていく。

 熱い、とても熱い。

 救いを求めるように喘ぐが、彼女は何とも思っていないようだった。

 そういえば、初めて彼女に会った時、彼女は痛みを感じないと言っていた。そして、良く考えもしなかった僕は、「自分も」と、同意した。

 彼女からすれば、この行為は苦痛でも何でもない。ただ、動けなくなったらしい僕を運んでいるだけ。それがどんなに痛くて、そして治らないとしても。

 僕は目を開いた。外界は変わり果て、澱んだ空に赤い光が差し込んでいた。

 ヴィータに握られていた僕の手が取れた。途端、軽くなった重さに、ヴィータは不思議そうな顔をして、振り返る。

 それはそうだ。僕の手足は僕のものではない。何らかの遺伝子の操作でくっつくようにはなっているが、あれらだって、元は死んだ子供の物を少し弄って長持ちするようにしただけ。定期的に交換しないと朽ちる。

 僕のものであるのは、最早内臓くらいだ。火傷の跡も手足からは無くなったし、僕が僕じゃなくなっていくのは時間の問題だった。

 食べ物を受け付けなくなり、吐き戻すようになってから、僕は食事を摂らなくなった。正確な期間は知らないが、僕の時間が他の子供と違うことくらい、気が付いていた。目が覚めると、看守はいつも違う人間になっていた。

 ――フロウの実験。僕はそれの被験体であったことを、今更ながらに思い出す。

 仰ぎ見ると、半笑いの月が、こちらを見下ろしていた。僕の焦がれたものは、こんなに冷たいものであったか。

 もうそんなことはどうでも良かった。だって、僕の皮膚はもうずるずるで、そこら中を、汚している。

 どうしようもないほど、僕の身体は熱くなっていた。火にくべられた時の感覚よりも、鈍くて痛い。

 ヴィータは止まらなかった。取れた僕の手を投げ捨てて、反対を取った。でも、それも直ぐに駄目になった。

 次は足。折れた足は引くには不安定すぎて、ヴィータはとうとう、諦めた。

 事切れそうな僕の側にしゃがみ込み、何やらメモを見せてくる。

「偽物」

 ただ、それだけが書いてある。僕は、それを手に取ろうとしたが、傷口からごぽり、と固まりが溢れた感じがしただけで、どうしようもなかった。

 ヴィータの背が、どんどん離れていく。

 ああでも、僕はこれで死ぬことが許される。

 痛くて辛くて苦しい日々が、ようやく、終わるのだ。

 僕が「偽物」だとしても。この感覚だけは、僕には本物のように感じられた。


(Ignis)


 ヴィータが歌いながら帰って来た。

 僕が彼女を抱き上げると、くすぐったそうに声を上げる。

 ドアの外を見る限り、彼女に頼んだもう一人のほうは、道中に死んでしまったようだ。

 ああ、惜しい。今回は良い線まで行ったと思ったが。

「先生、研究所のお掃除の人が来ているよ」

「ああ、そうかい。じゃあ案内してあげてくれるかな」

 ヴィータは頬を上気させて頷き、外にいるらしい来客と、来た道を戻っていった。

 ああ、申し訳ない。話が途中になってしまった。どこまで話したかな。

 思い出話をして欲しいのかい。分かった。面白くもないと思うがね。

 研究を開始して、既に二百年は経ったように思う。

 僕は不老だった。それは生まれついてのものであったから、疑問も不可思議さもなかった。村の人もそうだった。かつての王国はその秘密を暴きたくて仕方がなかったのだ。

 僕たちは来る日も来る日も、王国から遣わされる兵士に追いかけられた。たくさん殺されたし、殺したように思う。両親も惨い仕打ちを受け、絶命した。その内、疲れ切った人たちは、自ら死んでいってしまった。

 僕は生き残った最後の一人。

 最初は後を追おうとした。首にナイフを当て、滑らせるだけとなった刹那、両親の死に様を思い出した

 ぐずぐずしている間に、王国は、兼ねてから争っていた連合国に負けた。僕は連合国に捕らえられ、実験と称した拷問を日夜受けた。

 しかし、僕以外の人間は老いる。僕の研究はいつしか忘れられ、連合国も新たな火種に夢中になり始めた。

 僕は、研究所の奥深くに格納され、そのままにされた。生きている人間を放置するなんて、同じ生き物ながら軽蔑したよ。

 ――僕は研究所から脱走した。僕は不死ではないから、ダメージを受けた身体を回復させるのにはとても時間がかかった。しかし、僕には時間が腐るほどあったから、苦でもなかった。

 それにしても、すぐに死んでしまう人間というのは愚かだと思わないかい?

 あれだけしつこく、僕の体の秘密を明かそうとしていたのに、忘れてしまうなんてね。

 きっと、僕の名前が載った文献すら残っていないんだよ。

 そうでなければ、あの研究所をあんな格安で売るものか。

 さて、僕はそういう訳で、人間への復讐を誓った。

 戦争孤児は簡単に手に入る良い素材だった。ただ、どうしても命を扱う以上、死や痛い事は避けられない。なるべく苦痛を減らしてはあげたかったのだが、僕はそういったことが不得手だった。

 可哀想だと思うかい。そうだね、通常の感覚とやらに当て嵌めるのなら、狂っているとは思うよ。

 でも考えてみてくれ。僕をこうしたのは誰だ?

 僕は狂っていない。それに、普遍的なんていうものは最悪の場合、一秒後には破壊される危険性のあるものだよ。いや、悪かった。そんな顔をしないでくれ。

 話を戻そう。

 やがて、僕はヴィータと出会った。いや、彼女のことではない。彼女は二十二番目さ。

 彼女は驚異的ともいえる回復力を持っていた。それを改変していって、不死になったのが十五番目のヴィータ。彼女を母体にいくつかコピーを作ったんだが、どうにも定着率が悪かった。

 遺伝子の改良はその後何年も続いた。その間に、あの子が見つかった。

 酷い火傷をした子だった。僕の名前を貸して、記憶の植え付けを行っていた子だったのだが、どうにも不老の遺伝子に似たものを持っていたようでね。あの子にもヴィータの遺伝子をプレゼントして、僕と同じ遺伝子コードになるまで肉体を書き換え続けた。

 結果、休眠期間が必要にはなるが、外見は不老の状態でいられるまでになった。ただ、内臓までは行きつかなかった。

 体力が落ち切ったあの子は、さっき、ヴィータと研究所の外に出て、あわれ、雨に打たれただけで死んでしまったのさ。

 遺伝子の情報は既に得ている。もう少し時間を掛ければ、僕の復讐は成し遂げられる。

 ああ、僕の復讐内容?

 シンプルさ。

 死にたくても死ねない、老いたくても老いることが出来ない。そんな地獄に落としてやるのさ。

 人間というものは、得られないと得たいと騒ぐくせに、いざ手にすると懐古趣味に走る。愚かしいよ、本当にさ。

 さて、時間だ。

 こんな話を聞いて、君がどう感じるかは興味深いし、出来ればじっくり伺いたいものだが……。生憎、君の時間は僕よりも短い。

 さあ、そこに腰掛けて。

 心配することはないよ。

 君はすぐに、      。


(   )


 先生は、いつ見ても若々しい。

 僕は三十年は彼を見ているが、どうも彼は年を取らないらしい。

 そして、それは僕も。

 十年前の日、ヴィータが子を産んで干からびた後、先生はその赤ん坊をミンチにして、僕に食わせた。血の味がして美味しくなかった。

 僕は、先生が言うにはフロウフシというものらしい。どうでもいいけれど、ヴィータもいないし退屈だ。

 先生は今朝、何かを叫んだ後、どこかに出かけて行ってしまった。

 その後から、変なにおいのする雪が降っている。むせた。

 何も楽しくはない。

 先生はもう帰ってこないだろう。

 ヴィータの入った瓶が、からん、と音を立てて転がった。



 僕の世界に初めて月が落ちてきた夜、煙たかった周りの景色はいっぺんに晴れたような気がした。

 深過ぎる藍の縁取りは、月虹の輪に揺さぶられて時折顔を歪ませていた。

 この世界を自由に歩けるなら、何を他に望むだろう。手を伸ばして、触れられるくらい近く、近くまで手繰り寄せようとする。

 死が許されない世界。あの日からずっと灰が舞っていたが、ようやく落ち着いた日に、僕は月に近付きたいと願った。

 どこかのおとぎ話では、月は死を象徴しているらしい。

 僕は死に焦がれている。

 今日も、明日も、明後日も。

 いや、時間なんてもう、何の意味も為さないのだ。


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