ニコルプリズム
未人(みと)
過去の過ち
第1話
僕はレイを愛している。
それが、路上の落書きみたいにどこにでも転がっている言葉だと分かっていても、最初にそれを書かずにはいられなかった。
たとえ、その愛が誰にも証明されずに終わっても、僕という輪郭が世界から静かにこぼれ落ちても、残された粒子は午後の埃のように陽の中を漂うだけだ。
だから、怖くも、悲しくもない。
それでも今こうして言葉を綴っているのは、すべてがあの日、ルーと出会ってしまったことから始まったと知っているからだ。
本当はレイから始めたかった。
レイの名を最初の一行に置くつもりだった。
けれど、実際に僕の人生の軌道をずらしたのは、いつだってルーだった。
当時の僕は大学のキャンパスの影に身を潜めるみたいに、ただレイの横顔だけを追って生きていた。
枝の隙間から落ちる光が、レイの髪を透かして揺れるたび、胸の奥のどこかが、ひどく脆い場所を打たれたように疼いた。
レイは、僕にとって肉体を持った人間ですらなかったのかもしれない。
キャンパスの雑踏の中で、僕は彼の輪郭だけを、まるで網膜に焼き付いた残像をなぞるように追いかけていた。
レイがそこにいれば、世界は意味を持ち、レイが角を曲がって消えれば、色彩は砂のように崩れ落ちる。
僕はレイに触れたいと思ったことは一度もない。ただ、光が僕の視界を領分していること――それだけが、僕がこの世界に繋ぎ止められている唯一の証拠だった。
そして、その痛みに囚われていた一瞬の隙に、僕は、不運としか言いようのない出来事の渦中にいた。
──それを、ルーに見られたのだ。
ルーは、世界のルールを無視して歩く存在だった。
笑えば空気ではなく、その場の座標が書き換わったように感じられた。
そして彼女の左右にはいつも、春の光のような顔をした少女たちがいた。
彼女たちの視線は、ルーの顔ではなく、ルーの完璧な骨格のラインや、脚の組まれ方に、ひそかな熱を宿しているように見えた。
「そこの、鍵穴の存在も知らないみたいな顔をしてる君、ちょっと来て」
その声が、僕の重力をほんの少し、いや、だいぶぶんを狂わせた。
そして、次の一呼吸の間に──
「ノア」
ルーは、まるで昔から知っていたような口調で僕の名を呼んだ。
心臓がひとつ打ち損ねたように感じたのを、今でも覚えている。
あの日、僕は抗いきれずに首を縦に振った。
海風のせいにしておいたが、きっとそんなものは言い訳だった。
十数年が過ぎた今も、レイの横顔と、ルーのあの笑い声だけは色褪せない。
そして今日、僕はこの文章の続きを書くことになった。
デトロイトの総合病院で外来が終わった直後に、
受付からこう告げられたからだ。
──「アイオワ州の弁護士さんから、お電話です」
◆
あの日、ルーは大学のカフェテラスの白い椅子に、
まるで風に触れた羽がそっと降りてきたような軽さで腰掛けていた。
タブレットを指先でそっと滑らせながら、陽に透けるストローをくわえている。その姿は、風景のどこにも属していないように見えた。
「ノア、ちょっと」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥のどこかがゆっくりずれた。
さっき校舎の影で呼ばれたばかりなのに、不思議とその響き方はまるで別物で、
僕はまた動けなくなった。
ルーは椅子の背にもたれ、僕を上から覗きこむようにひっそりと笑った。
「座って。立ってると邪魔だから」
命令でもなく、お願いでもなく、ただ“そうなることが最初から決められていた”みたいな言い方だった。
未熟だった僕は、その言葉に逆らうという発想すら浮かばなくて、素直に向かいの椅子へ腰を下ろした。
「手伝ってほしい実験があるの」
ルーは淡々と言いながら、タブレットを僕の前へ滑らせた。
“実験”という重い単語とは裏腹に、その声は氷の薄膜みたいに軽かった。
「遺伝子工学のゼミで使うサンプル。ヒト由来で、採取してすぐのが理想なの」
その声に、温度というものがまったく感じられなかった。
そこに“危険”の気配があると、当時の僕は気づけなかった。
「……サンプルって、何を?」
自分でも驚くほど小さな声が出た。喉が乾いていた。
ルーはストローをくるりと回して、軽く息をつく。
「まあ、いろいろよ。あなたの負担はほとんどないから安心して」
安心できる材料はどこにもなかった。
けれど逃げる理由も見当たらなかった。
彼女の隣に立つ光の粒みたいな女の子たちの中にいると、自分の位置が曖昧になっていくような感覚に陥った。
「もちろん報酬はあるわ」
ルーはそう言って、タブレットの画面を僕へ傾けた。
次の瞬間、呼吸が止まった。
画面には、夏の海辺で笑うレイがいた。
水面の光が横顔に揺れただけで、胸の奥のどこかがかすかに裏返る。
潮風が頬をかすめたような錯覚が走った。
知らない海のはずなのに、写真の光が皮膚の内側へゆっくりと侵入してくる。
手を伸ばせば触れられる気がして、自分でも驚くほど呼吸が乱れた。
悟られまいと胸のざわめきを押し込んだが、かえって手のひらがじんわり湿っていくのを感じた。
背中に、冷たい針が刺さるような感覚があった。
僕がレイの横顔にどんなに醜く、そして狂信的な視線を注いでいたか。それを、ルーに後ろから覗き込まれたのだ。
それは、一番奥にあるクローゼットの扉を、見知らぬ他人に土足で蹴り開けられるような暴力的な感覚だった。僕が自分自身にさえ隠していた『執着』という名の毒を、ルーは、今、僕の背中越しに冷徹に検分している。
逃げ場はなかった。全身の血が逆流するような羞恥と、魂のいちばん柔らかい部分を素手で掴まれたような、得体の知れない恐怖が這い上がってきた。
落ち着け。
落ち着け──。
分かっていても、胸のどこかが勝手に震えた。
これは記憶じゃない。
僕が勝手に描いた、レイの“半分だけの幻想”だ。
その幻想が、体温より先に僕を支配した。
「協力してくれる?」
ルーの声が、胸のざわつきの上に静かに落ちた。
レイの残像に揺れる僕を、ひどく容易く見透かす声音だった。
「それとも……まだ鍵穴を知らない鍵でいたい?」
意味を冷静に考える余裕なんてなかった。
言葉より、声より、胸の内側で暴れる感覚のほうがずっと強かった。
逃げたいとも、拒みたいとも思えなかった。
ただ、この混乱をごまかしたくて──
僕は頷いた。
若さという薄い鎧に守られたふりをしながら、自分でも知らない衝動に押されるように。
あの日の頷きこそが──
僕の人生を静かに分岐させた。
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