2 光と闇

    ◆

 その女はクレアと言った。線のように細く艶やかな黒髪が、生温なまぬるい夜風でなびいていた。視線を合わすと身動きが出来なくなる。吸い込まれるような漆黒のつぶらな瞳。透き通るような白い肌に、小悪魔のように愛らしい唇が浮かんでいた。だけど純白の着衣は返り血がべっとりとこびり付いて、かすかな死臭がただよっていた。


「私はあなたの事を何でも知っているわ。暗闇の殺人鬼エレナ。殺した数は、分かっているだけでも数十人。町中を恐怖の渦に巻き込んだわね」

クレアは乱れる黒髪を大儀そうにおさえた。


「何が言いたいの? あたしをどうするつもり?」

苛立たしく言葉を吐くと、クレアは視線を湖に移し、勿体つけるようにしばらく黙り込んだ。


「……エレナ。見ての通り、私はあなたと同じ人殺し。だけど明白な目的があるの。その目的を果たすためには、あなたが必要なの。私に協力して欲しいのよ」

「面倒はごめんだわ。どこの誰だか分かんない奴に、協力なんて出来ない」

あたしは気づかれないように、周囲に目を走らせた。手頃な石があれば、ぶつけて仕留める自信があった。


「ふふっ、石をぶつけるつもりね。私を殺そうとしても無駄よ」

クレアは髪をたばねて後ろでくくった。狼狽うろたえるあたしを見透かしたような仕草だった。


「ど、どうして? どういう事?」

「あなたの心の中は、私に筒抜けなの。意識を集中すると、あなたに限らず全ての人間の心が分かるわ」

突き刺すような視線をあたしに向け、クレアはボソリと言った。


「う、うそよ。そんな事出来るわけない!」

あたしは身動きが出来なかった。震えて、そう叫ぶのがやっとだった。

「まさか、あんたは……」

絞り出した声に微笑を返して、クレアはあたしに言った。


「エレナ、あなたは私から逃げられない。日が昇ればあなたは盲目。見つかれば町中まちじゅうの人間に、なぶり殺しにされるわ」


 どんよりとにごった夜空が、薄暗い草原をぼんやりと照らしていた。あたしは沈む心をいやす術をひたすら考えていた。前を進む女の、おぼろげな影を目で追いながら。


    ◇

 夜明け前に町を抜け出した私たちは、港町ソマリナに足を踏み入れた。エレナは辿々たどたどしい足取りで私の袖口そでぐちをつかんでいた。


「ソマリナに着いたわ。そこに宿があるから、休ませてあげる」


 ソマリナは貿易が盛んで豊かな町。この町のどこかに標的がいる。大司教アドネル。癒しの魔法【キェルト】の伝授書は、アドネルのふところにある。何としても手に入れてみせる。


「さあ、ついて来なさい。入るわよ」

「で、でもあんた、服に血が付いてる。きっとあやしまれるわ」

エレナは蚊の泣くような声で言った。


「ふふっ、私を心配してくれるの? ありがとう」

「違う! あんたのせいで、またオリの中に入るのが嫌なだけ!」

エレナは顔を真っ赤にして言った。


 立ち止まったままのエレナを無理矢理引っ張り、私は宿の扉を開けた。


「いらっしゃい! ――?!」

言葉を切った宿の主人の表情がかたまり、目が見開いた。私の服にべっとりと付いた返り血に驚いたのだろう。


「*メルスキーナル*カナルーク***」

呪文を唱えると、時が止まったように主人の動きが止まった。


「何? どうしたの? クレア! あんた何をしたの?」

エレナは震えながら、私の腕を強くつかんだ。


「殺したわ。これで文句は無いわね」


    ◆

 恐ろしい悪魔、クレア。人を迷いも無く、まるで虫のように簡単に殺した。逃げ出せるものなら、すぐにでも逃げ出したい。こんな事になるのなら、あのまま牢獄で死刑を待っていた方がよかった。この女の機嫌をそこねたら、あたしはすぐに殺される。怖い、どうしようもなく怖い。


「ふふっ。エレナ、あなたを殺したりしないわ」

クレアはあたしの髪を撫で、ゆっくりとした口調で言った。

「ほんとに? 本当に信じていいの?」

「そのかわり私に協力してくれる? はしないけど」

クレアはという言葉を強調して言った。


「……出来る限りの事はする。でも、あんたはそんなにおっかないのに、どうしてあたしが必要なの?」

あたしが問うと、クレアは含み笑いを漏らして言った。

「誰だって弱点はあるわ。あなたがやみだとすると、私はひかり。私の魔法は光の力が必要なの。強ければ強いほど威力が上がる。反対に――暗闇だと力は半減するわ」


「へぇ……いい事を聞いた」


「まあ、どんなに暗い所でも人の一人や二人なら、簡単に殺せるけどね」

付け足すようにクレアはつぶやいた。


    ◇

 私がそう言った途端、エレナの顔がこわばった。今の彼女をつなぎとめるには、そう言うしかなかった。実際の私は暗闇に無力。今は弱っていて頼りないけど、どうしてもエレナの力が必要だった。


「この町に来た理由はただ一つ。【キェルト】の伝授書を手に入れること」

「キェル……伝授書でんじゅしょ?」

「キェルト。癒しの魔法よ。呪文を唱えれば、どんな傷も癒えていくというわ」


「それを読んだら、あたしにも出来るの?」

エレナは興味津々な顔つきで言った。

「残念ながら無理よ。あなたにはウィッチの血が流れていない。諦めるのね」

私が言うと、エレナは頬を膨らませて押し黙った。


「よく聞いてエレナ。伝授書は、この町のどこかにいるアドネルという男が持っている。そいつはこの町の権力者で、手荒な部下も沢山いるわ。そいつらを全員殺してでも伝授書を奪うの。分かったわね」


「どうして? そこまでして必要なもの? そんなもの、怪我をしてまで手に入れる価値があるの?」

「私の目的、それはこの世にある全ての伝授書を手に入れること。そのためにはどんな事でもするわ。人殺しでも何でも」


「全ての伝授書を手に入れてどうするつもり? その先に、一体何があると言うの?」

エレナは大の字になってベッドに寝転がった。


「それは全てがそろった時に分かるわ。私がこの世に存在する意味が分かる。エレナ、人は皆、何かの意味を持って生まれてくるの。だけど大概の人間は、それを知らずに死んで行くわ。私の目的は自分のためじゃない。誰のためでもない。何か大きな力が――私を突き動かしているのよ」

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