第9話:趙雲の独断と孫堅救援、そして死を回避する「助言」

夕闇が迫る中、戦場の喧騒はまだ収まっていなかった。遠くから響く蹄の音、兵士たちの叫び声、そして鉄がぶつかり合う鈍い音。趙雲は公孫瓚の陣幕を後にすると、そのまま自らの隊舎へと向かった。彼の脳裏には、公孫瓚の躊躇う言葉と、瀕死の孫堅の姿が交互に蘇る。


(公孫瓚様の意図は分かる。盟主である袁紹の顔色を窺い、無用な軋轢を避ける。それが、この乱世を生き抜く『定石』なのだろう)


しかし、趙雲の胸には、その「定石」を打ち破る確固たる意志が燃え盛っていた。史実を知る者として、孫堅の死がもたらす未来の不利益はあまりにも大きい。そして何より、「江東の虎」とまで称されるほどの英傑が、卑劣な策によって不本意な死を遂げることを、彼は見過ごせなかった。


(俺は、史実に殺されない。ならば、史実が殺そうとしている英傑も、救ってみせる!)


彼の心の中で、「生存への欲望」と「未来を変える価値観」が強く結びつき、行動への「確かな理由」へと昇華される。もはや、公孫瓚の許可は必要なかった。彼の胸は、既に決意で満ち溢れていた。


隊舎に戻ると、趙雲は部下たちを集めた。選ばれたのは、趙雲自身が簡易鐙を装備させ、訓練を施してきた、最も信頼できる少数精鋭の騎兵たちだ。彼らはまだ若いが、趙雲の指導によって、その騎乗技術は既に他の白馬義従の兵士たちを凌駕していた。


「皆に問う。今から、孫堅将軍の窮地を救いに行く。これは、公孫瓚様からの正式な命令ではない。だが、我らの力で乱世を変える最初の一歩となる」


趙雲の言葉に、兵士たちはざわめいた。独断での出陣。それは、公孫瓚の逆鱗に触れる可能性も秘めている。しかし、趙雲の瞳に宿る揺るぎない決意と、彼が日々の訓練で見せてきた圧倒的な武勇、そして彼がもたらした「新しい騎乗の感覚」を知る兵士たちは、彼を信じた。


「子龍様が行かれるのなら、我らもお供いたします!」


隊長を務める若者が、真っ先に声を上げた。その言葉に、他の兵士たちも次々と賛同の声を上げる。彼らの心には、趙雲がもたらした「強さ」への信頼と、新しい時代への漠然とした期待が芽生えていた。


「よし!行くぞ!」


趙雲は白馬に跨がり、簡易鐙に足をかけた。彼の号令と共に、わずか数十騎の騎兵隊が、夜陰に紛れて公孫瓚の陣を抜け出した。彼らは大地を震わせるような音を立てず、風のように素早く、そして静かに、孫堅軍が包囲されている虎牢関の戦場へと向かう。


虎牢関の戦場は、夜になってもなお地獄のような様相を呈していた。董卓軍の篝火が、血と土に塗れた大地を不気味に照らし出す。孫堅軍は四方から迫る敵に囲まれ、まさに壊滅寸前だ。槍や剣がぶつかり合う音、兵士たちの悲鳴、そして孫堅の、怒りに満ちた咆哮が響き渡る。


(あそこだ……!)


趙雲の目は、戦場の中心で、血まみれになりながらも獅子奮迅の活躍を見せる孫堅の姿を捉えた。彼は董卓軍の包囲網の、最も薄い一点を正確に見抜く。


「突破するぞ!続け!」


趙雲は号令をかけると、先頭に立って馬を駆った。彼の白馬は、改良された馬具と、趙雲の卓越した馬術によって、まるで意思を持ったかのように敵陣を切り裂いていく。鉄鐙に支えられた趙雲の槍は、正確無比な一撃を次々と繰り出し、董卓軍の兵士を瞬く間に薙ぎ倒していく。


その異様な速さと正確さに、董卓軍は混乱に陥った。「な、なんだ、あの騎兵は!」「どこから現れた!?」


趙雲に続く騎兵たちも、鐙によって得た安定性を活かし、普段以上の力を発揮する。彼らの槍は、これまでよりも深く、そして正確に敵を貫いた。わずか数十騎の部隊が、まるで嵐のように敵陣を駆け抜け、孫堅軍の包囲網に風穴を開けたのだ。


「孫堅将軍!こちらへ!」


趙雲の声に、深手を負っていた孫堅は驚きに目を見開いた。目の前で、見慣れない白い馬に乗った若者が、信じられないほどの武勇で敵を蹴散らしている。その騎兵隊の動きは、これまで見たどの部隊とも異なっていた。


「貴様は……!?」


孫堅は、趙雲が切り開いた道を通り、間一髪で包囲網から脱出する。趙雲の部隊は、孫堅軍が安全な場所へ退避するまで、巧みな動きで董卓軍の追撃を阻み続けた。


孫堅が安全な場所まで退避し終えると、趙雲は部隊を率いて戦場を離れた。孫堅は、息を切らしながらも、趙雲の後ろ姿を食い入るように見つめていた。その若者の顔は、先日の賊討伐の際に助けてくれた少年と瓜二つだった。その時も驚いたが、今回の救援は、まさに九死に一生を得たのだ。


「貴公は一体……!名を名乗られよ!」


孫堅の問いかけに、趙雲は馬を止め、振り返った。月明かりの下、彼の顔には疲れよりも、達成感が浮かんでいる。


「常山、趙子龍」


簡潔に名を告げると、趙雲は馬を返し、公孫瓚の陣営へと戻っていく。孫堅は、その名と、その異様な騎兵隊の姿を、脳裏に深く刻み込んだ。


翌日。孫堅は、董卓軍からの追撃を振り切り、何とか味方陣営へと戻ることができた。そこで彼は、今後の進軍計画を巡って、諸侯との会議に出席することになる。その席で、孫堅は自らが次に目標とする場所を告げた。それは、史実で孫堅が命を落とすことになる地、襄陽だった。


趙雲は、その言葉を聞いて、胸に再び強い焦燥感が走るのを感じた。


(このままでは、孫堅が死ぬ。せっかく命を救ったのに……!)


彼は、孫堅の死が天下統一の道を遠ざけ、さらなる混乱を招くことを知っている。それは、彼が目指す「平穏な世の実現」とは真逆の方向だ。趙雲は、何とかしてその運命を回避させなければならないと強く感じた。しかし、直接的に未来の出来事を語ることはできない。どうすれば、孫堅に危機を伝えられるか……。


会議が終わり、孫堅が陣幕に戻ろうとするその時、趙雲は意を決して、彼に近づいた。


「孫堅将軍」


孫堅は、その声に振り返り、驚いた顔をした。昨夜の若き英雄が、なぜここに。


「貴公は、趙子龍殿か。昨夜の恩義、感謝に堪えぬ。おかげでこの命拾いした。ぜひとも改めて礼をさせてくれ」


孫堅の言葉に、趙雲は恭しく頭を下げた。


「滅相もございません。ただ、一つ、お伝えしたいことがございます」


孫堅は、意外そうな顔をしながらも、真剣な眼差しで趙雲の言葉を促した。


「襄陽付近の地形は、複雑に入り組んでおり、特に山道は伏兵に利用されやすい。また、劉表の兵は、地の利を得れば、侮れぬ強さを持つ。慎重を期すべし。決して、単独で深く踏み込まれることのないよう……」


趙雲は、あくまで偵察情報と、自らの軍略の読みとして、具体的に、しかし示唆的に告げた。彼の言葉は、孫堅が自身の才覚でその「真意」を理解できるよう、最大限の配慮がされていた。それは、彼の知性が、相手の思考を読み解き、最適な形で情報を提示する、まさに「意味を伝える」働きだった。


孫堅は、趙雲の言葉に眉をひそめ、深く考え込む。その言葉の奥に、何か並々ならぬ「意味」が込められていることを感じ取ったようだ。


「……なるほど。貴公の忠告、肝に銘じよう」


孫堅の真剣な返答に、趙雲は安堵した。しかし、それだけではまだ不安が残る。万が一、孫堅が助言を聞き入れなかった場合、史実が繰り返される可能性もある。趙雲は、孫堅軍の中に「監視の目」を置くことを決めた。


その夜、趙雲は最も信頼でき、情報収集能力に長けた部下の一人を呼び出した。


「お前に重要な任務を与える。孫堅軍に潜入し、彼の動向を密かに監視せよ。もし彼が再び危険な行動に出ようとしたならば、何としてでも私に伝えよ。そして、万が一、彼の身に危険が迫った際には、可能な限り介入し、彼を守れ」


部下は、趙雲の言葉の重みに、ただ黙って頷いた。それは、趙雲の「平穏な世の実現」への執念と、未来の「確かな結末」を確かなものにするための、水面下での動きだった。


「……必ず守るぞ、孫堅」


夜風にかすかに蹄音が響き、遠い戦場の残光が、趙雲の決意を赤く照らしていた――。

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