テレパス

TKG

第1話

――熱い。息ができない。



 腕を伸ばしても、誰かの指が肌に食い込むように追いかけてくる。

 見知らぬ顔。

 歪んだ笑い声。

 遠ざかるざわめきと、もう一つのささやき。



「そんな目で、私を見ないで……」



 声を出したつもりなのに、喉はひゅうひゅうと空気を吸うばかりで、言葉にならなかった。



――ああ、まただ。

 また、あの夢。



「わたしが、あなたを守ってあげるからね」



──遠ざかる狂気の囁きが、熱を帯びたまま耳に残っていた。










 ぱちり。目を開けた。

 天井。見慣れた模様の壁紙と、外から聞こえる小鳥のさえずり。



 喉の奥が乾き、額にはじっとり汗がにじむ。

 胸が上下しているのを確かめながら、しばらく動けずにいた。

 夢の気配が皮膚の内側に沈殿ちんでんしている気がした。



「……はぁ」



 深く息を吐き、ベッドから足を下ろす。床は冷たく、意識が覚醒かくせいしてゆく。



――もう大丈夫。いつもの朝だ。



 私は立ち上がり、洗面台の前へ向かった。



 カーテン越しの朝日がレースを透け、白い光の粒を散らしている。

 そこに映るのは、よく知っている――けれど時折、他人のようにも思える私の顔だった。



 鏡の中で、少女わたしが瞬きをする。

 長い睫毛まつげが頬に影を落とし、うるんだ黒い瞳が静かに揺れた。



 通った鼻筋、淡い唇、透ける肌――眠気を拭ったばかりの顔はどこかはかなく、現実味にとぼしい。

 指先でまぶたの下に触れると、かすかな熱が残っていた。



「……ひどい顔」



 悪寒おかんとも微熱びねつともつかない感触が、うなじから背筋をう。



 私はゆっくり寝巻きの襟に手をかける。

 ボタンを一つずつ外すたび、布の重みが肌を滑り落ちる。

 鎖骨、肩先――皮膚の下で、音のないざわめきが動く気がした。



 ぱさり。

 寝巻きが足元に落ち、鏡に素肌があらわになる。



 白磁はくじのような肌。

 細くしなやかな首。

 くびれた腰に沿う肋骨の影が、繊細せんさいに浮かび上がる。



 鏡の向こうの少女わたしが、こちらを見つめている。

 まるで他人の肉体を観察するように。





 この身体は、そのものだ――そう静かに思った。





 手櫛てぐしで髪を払う。

 長い黒髪がしっとり背を流れ落ちる。

 くたび、かすかな水音が皮膚に残り、絹めいて冷たい重さをはらんでいた。



 レースのブラを背中で留め、肩紐を整える。

 布が胸骨の上で温度だけを残し、輪郭りんかくがきしむ。

 その上に薄手のキャミソールを被り、すそがふわりと揺れた。



 夏用のセーラー服――白地に紺のライン、揺れるリボン。

 袖を通すと冷えた布が素肌をなぞり、背筋にわずかな戦慄せんりつを走らせる。



 えりを正し、リボンを結ぶ。鏡には制服を纏った呪いの器が静かに立っていた。





 可憐かれんで、はかなげで、そしてあまりに静かすぎる――私の、仮面。





 顔を洗い、歯を磨き、最低限の整えを終える。

 水音とともに揺らいだ鏡の中の私は、またほんの少しだけ他人になっていく気がした。



 キッチンの椅子に腰掛け、トーストを一口。

 蜂蜜の甘さだけが私を現実につなぎ止める。



──現実はいつだって、甘さより苦さの方が濃い。



 食器をシンクに置き、通学カバンを肩にかける。玄関の扉をそっと引いた。



 朝の空気が頬を撫でる。

 せみの声が遠く、夏の輪郭をかすかに運んでくる。



 住宅街の朝は、ぼんやり湿った温度を纏っていた。

 軒先のきさきの風鈴が小さく揺れ、私はアスファルトに細い影を落としながら駅へ歩いた。



 向かいから制服姿の男子高校生。

 目が合いかけた瞬間、彼は視線をらす。





 だが、その内心は──





(え、可愛い……! どこの学校? 胸デカいな……ヤバ)



 ざわりとこの少年の欲望が、汗を帯びた空気のように貼りつく。



 すれ違いざま、彼の肩がこわばり、赤い顔で咳払いして歩みを早めた。

 私は無表情のまま、その背を見送る。

 こういうことには



 精神感応者テレパス

 私、白瀬凛花しらせりんかには、他人の声が聞こえる。



 駅へ向かう路地の先、くたびれたスーツの男が歩いていた。

 目の前の私をちらりと見た、その瞬間――

 キン、と薄い耳鳴りがした。



(女子高生……可愛い。若いって羨ましい……あー俺も若かったらこんなと……)



 近づくにつれ視線は足元へ泳ぎ、スマホで時刻を誤魔化す。

――見てくる。

 考える。

 何も言わず、ただ勝手に。

 それだけで、内側はにごって見える。



 こういう波が、いつだって肌に貼りついてくる。

 汗ばんだ空気に混じった汚れのように。





 呼吸を整え、駅前の広場へ。

 自転車のブレーキ音、学生の声、改札の電子音――雑踏ざっとうが層を成す。



 エスカレーターを上がる途中、硬いソールの足音が迫り、脳の奥にざらついた気配が走った。



(あのJKのスカート……見えないかな。

 角度的にワンチャン映れば……)



──視線が裾を舐めるように滑る。

 全身の皮膚が粟立あわだち、私は咄嗟とっさにスカートを押さえた。



 振り返らない。

 けれど、わかってしまう。

 背後の男が舌を打ち、そっぽを向いた。



 ホームにはすでに列が伸びている。

 最後尾につくと、背後から不快な波長が刺さった。



(今日こそ……少し触るだけ……人混みに紛れりゃ……)



 粘つく思念。

 息づかい。

 視線――全部が伝わる。

 その男は今まさにタイミングを狙っている。



 警告灯が点滅し、満員の列車が滑り込む。

 私は列を抜け、ベンチへ数歩逸れる。





 この電車は、ダメだ。





 背後で舌打ちが聞こえたが、視線を落としたままこたえない。



 次の電車まで六分。

 その先頭には女性専用車両がある。

 遅刻ギリギリになってしまうが、仕方ない。



 やがてピンクのラインをつけた車両が徐行し、扉が開く。

 冷気が頬をでた。

 私は無言で乗り込み、吊り革を握る。



 さっきの男たちの思念がまだ肌に貼りついているようで、吐き気がした。



 判で押したみたいな単語が、頭の内側にばら撒かれる。

 さらに粘りつく卑猥ひわいな妄想まで。

 声にしなくても、人がそう考えただけで、私には分かってしまう。





――静かすぎる。男の声が一つもない。





 扉が閉まり、車内が静まる。

 赤いリボンが視界の端で揺れた。



「――わたしが、あなたを守ってあげるからね」



 夢と同じ言葉が、今度は女の声で落ちてきた。



 安全なはずの車両でだけ、私は――何も聞こえない彼女に、気づかなかった。

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