第一章 惨劇の序章

忍び寄る影

 郊外にぽつんと建つ古びたガソリンスタンドは、市街から少し外れたところにある。片側が森に面し、もう片側は乾いた草地がどこまでも続いていた。ガソリンの価格表は色褪せ、ファーストフードのポスターは風にあおられてパタパタと音を立てている。


「……ほんとに、物騒な世の中だな」


 中年の男が、ため息交じりに言った。カウンターに肘をつき、冷えたコーヒーを片手で弄ぶ。


 くたびれたチェック柄のシャツに、色褪せたジーンズ。日焼けした肌に、うっすらと浮かんだ入れ墨。地元の労働者といった風貌だ。


「まったくだよ」


 カウンターの内側で、店主のウィルが応じた。

六十を過ぎた小柄な男で、白髪混じりの髪を後ろで束ね、黄ばんだTシャツに汚れたエプロンを着けていた。


 二人の視線は、カウンターの奥に置かれた古いテレビに向いていた。


 画面には女性キャスターが映り、冷ややかな声でニュースを読み上げている。


 映像が切り替わり、警察車両に囲まれた現場が映る。黄色い立ち入り禁止テープが風にたなびき、記者が現場の状況をリポートしている。周囲には近隣住民らしき人々が集まり、口々に「怖いわ」「誰がやったのかしら」と不安そうにインタビューに応じていた。


「嫌だねぇ」客が言った。「近頃こんなニュースばかりだ」


「まったくだ」店主が頷く。「これといい、奇妙な事件が続いてる。お陰で商売上がったりだ」


「客がこねぇのは何時ものことだろう?」


「うるせぇ」


 店主はパンにソーセージを挟み、客に手渡す。


「どうも。いくらだっけ?」


「2ドルだ」


「あいよ」ポケットを弄る客。「それにしてもあの老夫婦、毎週スーパーで見かけてたんだがな」


「老夫婦?」


「ベンソンさんだよ。町のはずれの」


「ああ、あの人か。確かに。二人は仲が良かった。あんな事が起こって残念だ。あの穏やかそうなご老人が散弾銃で自分の奥さんと若者を撃ち殺すなんてな。今でも信じられねぇ」


「ちげぇねえな」


 カラン──。


 小さなベルの音が店内に鳴り響いた。

 振り返った店主と客の視線の先、扉を押して入ってきたのは一人の男だった。


身長は高く、しかしどこか不自然に背を丸めていた。

 古びたジャケットの裾は泥に汚れ、片方の袖口は裂け、血のような茶褐色のシミが広がっている。ブーツは片方だけ紐がほどけ、引きずるようにして歩いていた。


 なにより目を引いたのは、顔だった。


 土気色の肌。乾ききった唇はひび割れ、ところどころ皮が剥けていた。

 その目は虚ろで、焦点が合っていない。だが、どこか獣のような光を宿している。


「……よう、兄ちゃん。大丈夫か?」


 客の男が声をかけたが、反応はない。


 男は黙ったまま、カウンターに向かってゆっくりと歩みを進めていた。靴底が床をこするたび、濡れたようなぬちゃりという音がわずかに響く。


「なあ、聞いてるか?」


 男は立ち止まった。

 カウンターの前で、ただ突っ立ったまま、じっとウィルを見下ろしている。顔に表情はない。ただ、唇の端が、かすかにひきつっているようにも見えた。


 ウィルは怪訝な顔をしながらも、いつもの調子で声をかけた。


「おい、あんた、具合でも悪いのか? 水が欲しいなら言ってくれりゃ──」


 そのとき、ふいに男の喉から、低いうなり声が漏れた。


 ぐぅう……ぐる、るぅぅぅ……。


 それはまるで、人間の声帯が本来出すべき音とは思えない、濁った呼気のような音だった。肺の奥から、何かが逆流してきたかのような、粘ついた呻き声。


「……な、なんだ?」


 客の男が立ち上がろうとした、その瞬間だった。


 男が、突如として叫び声をあげながらカウンターに突進した。


「うわっ──!?」


 ウィルが咄嗟にのけぞるも、遅かった。

 男はカウンターを掴み、そのまま上半身を乗り出してウィルの肩に噛みついた。肉を裂く生々しい音が響く。


「が、ああああああああああああああああっ!!!!」


 ウィルの絶叫が店内を震わせた。





 エンジンの唸りが一定のリズムを刻みながら、広いハイウェイを滑るように車が進む。車内には静かなBGMと、後部座席から聞こえてくる子供たちの寝息だけが満ちていた。


 家族での旅行は、予想以上に楽しかった。心の底から「来てよかった」と思える旅だった。現地で買い込んだ抹茶菓子の箱、テーマパークランドのぬいぐるみ。


 助手席で目を閉じているエミリーの横顔に、マイクはちらと目をやる。ウェーブの入ったブロンドの髪。整った鼻筋、きめ細かな白い肌。穏やかな顔立ち。彼女は可愛く、美しい。デイビッドの自慢の妹でもある。


 外国語指導助手として日本の学校に勤めていたことがあるエミリーのお陰で旅行はスムーズだった。


 異国の地に不慣れな自分を、エミリーは自然体でリードしてくれた。言葉の壁も文化の違いも、彼女の柔らかな口調と微笑みが、すべてを和らげてくれた。


 マイクはハンドルを握り直し、フロントガラス越しに延びる景色に視線を戻した。雨雲の中から太陽が微かに顔を出していて、ひんやりとした風が車の外で木々を揺らしていた。


 ふと、救急車と警察車両が対向車線を通り過ぎる。マイクは目を細めて、車が遠ざかるのをミラー越しに見送った。事件か事故か。気にはなったが、今は休暇中。呼び出しが掛からない限り首を突っ込む必要はない。


 あの事件から数カ月。前もって申請しておかなければ、休暇は取れなかっただろう。デイビッドから「この町はおわってる」とか「しんどい!」といったメールが毎日のように届いていた。だが、その後に「寿司は食べた?」とか、土産の催促といった連絡が続くのでまだ余裕はあるのだろう。



 マイクはスピードを緩めることなく帰路につく。町がじわじわと恐怖で包まれようとしている事も知らずに。

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