第2話『誰にも見られない私と、彼が見ている世界。』

私は、相変わらず誰かの視線を求めていた。

信号が青になっても、すぐに渡れない。渡りきるまで誰かに見られていないと、もしかしたら私は道の途中で消えてしまうんじゃないか、って怖いから。

購買でサンドイッチを選ぶ時も、他の生徒が私のことをチラッとでも見てくれるように、わざと少し大げさに悩むフリをしたりした。

これが私にとっての**「存在証明」**。息をするのと同じくらい、なくてはならないものになっていた。


でも、それはかなり疲れることだった。


「観波みなも。そんなにキョロキョロしてたら、逆に目立つよ」


突然、背後から声がした。振り返ると、そこには是枝司先輩が立っていた。いつもの眠そうな目だけど、今日はなぜか私をまっすぐ見つめていた。その視線に、私は一瞬、安堵する。彼に見られている間は、私はここに“いる”のだから。


「先輩……」

「また、自分の“空白”を怖がってるのか」

彼の言葉は、私の心を正確に言い当てていた。


「だって、怖いです。もし、本当に誰も見ていない間に、私が世界から消えちゃったら……」

「そうなる前に、俺が**『観測』**してやるよ」


是枝先輩は、そう言って、フッと笑った。その笑い方は、どこか達観していて、私には彼のことがますます不思議に思えた。彼は、私のこの奇妙な状態を、まるで昔から知っているかのように受け止めている。


「先輩は、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか? 私のこと、変だって思いませんか?」

私がそう尋ねると、彼は少し考えてから答えた。


「変、かな? 世界なんて、見方次第でどうとでもなる。君の存在が不安定なのも、俺からすれば、ただそういう**“見方”**があるってだけだ」

「見方……?」


「そう。例えば、ここにリンゴがあるだろ?」

彼はポケットから、手のひらサイズの赤いリンゴを取り出した。どこから出したんだろう。


「このリンゴは、誰も見ていなくても、リンゴとしてそこにある。そう思うだろ?」

私は頷いた。当然だ。


「でも、それは**『そう“思う”』からだ。誰かが『リンゴだ』と認識するから、リンゴとしてそこにある。もし、誰もリンゴを知らなくて、みんなが『赤い石だ』**って思ってたら、それは赤い石として存在するんだ。君のケースは、その『誰かの認識』が、ちょっと特殊なだけ」


彼の話は、とても難しいように聞こえたけれど、どこか納得させられるものがあった。彼の言う「見方」が、世界の形を決めるのだとしたら、私の存在もまた、誰かの「見方」で決まるということなのか。


「先輩は……私が見えてるんですか?」

私は思わず、彼の目を覗き込むように尋ねた。もし彼に見えていないのなら、今この会話をしている私自身も、幻になってしまう。


是枝先輩は、少しだけ眉をひそめて、すぐに表情を戻した。


「ああ、見えてるよ。はっきりとな。君は、観波みなもとして、ここにいる」

その言葉を聞いて、私の心に、じんわりと温かいものが広がった。少なくとも、彼だけは、私を確かに見てくれている。私の存在を、認めてくれている。


「先輩は、どうして私を『観測』してくれるんですか?」

「それは……」


彼は答えようとして、言葉を飲み込んだ。そして、なぜか遠くを見るような目をしていた。その視線の先には、何があるのだろう。私が消えてしまう空白の向こう側に、彼だけが見ている何かがあるのだろうか。


「それは、俺の役目だから、かな」

彼はそう言って、くるりと背を向けた。


彼の「役目」とは、一体何なのだろう。そして、彼が“見ている”世界は、私たちが普段目にしている世界と、どう違うのだろう。

私は、彼の背中を見送りながら、新しい疑問を抱いた。

もしかしたら、彼こそが、私が存在する空白を埋めてくれる、唯一の存在なのかもしれない。


私は、彼の“視線”という名の生命線に、繋がれていくことを感じた。そして、その命綱の先に、私の知らない「もう一人の私」がいることを、予感し始めていた。

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