第三十二章 ニューイヤーイヴ・パーティ

2000年12月31日11時34分 ロウアー・イースト・サイド バー「The Melt」


 グラスの音と笑い声と、ちょっとだけ湿ったカウンターの匂い。スピーカーからは時代遅れのホーンセクションが鳴り響いてて、ネオンは赤と青の間を揺れてる。

 年の瀬のバーってのはいつもどこか現実離れしてて、どの顔も少しだけぼやけて見える。The Melt──俺とベンクマンがのは、他でもないこの店だった。


「──ってわけで気がついたら探偵事務所の床に二人並んでぶっ倒れてたってわけ

 俺がグラスを掲げると、周囲からは歓声とも、あくびともつかない笑いが返ってくる。泡の抜けたビールの味も悪くなかった。

「お前ら、ほんっとにヤバいもん吸ってんじゃねえのか?」

 カウンター越しにモーティが言う。頬を赤らめ、帽子はとっくにどこかへ飛んでいた。

「違う、違う。これはな、科学なんだよ」

 ベンクマンがまるで論文でも朗読するような口調で言った。鼻の頭が真っ赤だ。

「超・次元・的・現象。あらゆる時制が重なり合い、幻視と実体が混ざり合う時空的異常だ。いわば、カクテルの『神の視点』ってやつさ」

「詩人かよ、お前」

 誰かが言った。誰でもよかった。みんな笑ってた。俺たちがどこまで話したのか、正直なところ記憶があいまいだ。The Meltの空気は、記憶に薄いヴェールをかけてくる。たぶん、照明のせいだ。

「……で~、その~女の子は~? お前が~言ってた~なぞの〜美~女」

 ベロベロに酔ったマービンが訊いた。

「女……?」

 俺の口が、それを口にするのを躊躇った。その瞬間、ふと寒気が背骨を登った。冷房は切ってあるはずなのに。

 ベンクマンがグラスをのぞき込みながら答える。

「彼女の名前は……グ……グル……グァ……」

 彼の舌がもつれる。目の焦点がずれたような顔で、

「いや、違う。なんか、違う……グ……ガ……グリ……」

 一拍の沈黙。

「──ごめん、舌噛んだ」

 いつもの調子で言って、またみんなが笑った。その笑いの中に、少しだけノイズのような違和感が混じっていたのは、きっと俺の疲れのせいだ。

 時計の針がチク、チクと音を立てているような気がした。

 けれど実際にそんな音は店に存在しない。代わりに、スピーカーが針飛びして、一瞬だけ音楽が止まり──すぐにまた、何もなかったように始まった。


 俺はふと、カウンター奥の鏡に映った自分と目が合った。

 その俺は、俺より少しだけ遅れて瞬きをした。

「──その後の話は?」

 モーティの声で我に返る。

 俺は煙草に火をつけた。新年になる30分前に煙草を吸うのは、なんとなく縁起がいいような気がした。

「ないさ」

 と俺は言った。

「気づいたら、床の上さ。女はいなくなってて、ベンクマンは天井を見て笑ってた」

「いや、違う」

 ベンクマンが急に真顔になる。

「天井じゃなかった。俺が見てたのは内側だ。言葉の裏側だったんだよ」

「は?」

「言葉が、崩れてたんだよ」

 彼の声が、急にひどく遠くに聞こえた。

「文章が、文章じゃなくなって、ただの並びに──でも、意味が、確かに……あったんだ……」


「何言ってんだ」

 俺は笑った。

 けど、その笑いが妙に乾いて聞こえた。


 スピーカーの音が突然大きくなったように思えた。

 気づけばカウントダウンが始まっていた。

「……ナイン!」「エイト!」


 誰かがカウンターに突っ伏して、夢の中で踊っていた。

「セブン!」「シックス!」


 鏡の中の俺が、俺を見ている。

「ファイブ!」「フォー!」


 あれ? 口が、動いている──

 鏡の中の俺が、なにか言っている。けど、聞き取れない。

 声が、音になっていない。

 いや、音が言葉になっていない。

「スリー!」


 ベンクマンが俺の肩を叩く。何かを言ったが、それも意味を持たずに砕けた。

「ツー!」


 天井がゆっくりと文字になる。意味を持たないひらがなの羅列がぶら下がっている。

「──ワン! ハッピーニュー──!」


 パキッ。

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