第十四章 私立探偵の日常 その②

1997年11月12日13時55分 ニューヨーク イースト・ヴィレッジ


 次の日になってようやく、探偵らしい行動をやってみることにした。

 といっても、やったのは手紙が届いたという依頼人のアパートを覗いてみた程度だ。築70年は経ってそうな古いレンガ造りのビル。ポストは金属疲労で軋み、階段は一段登るたびに鳴いてうるさかった。

 依頼人の部屋もざっと見せてもらったが、年代物のタイプライターがあるだけで、これと言った手がかりはなかった。


 代わりに現れたのは──猫だった。

 一階の踊り場の奥。古びた掃除用具入れの脇から、ひょいと出てきた。グレーと黒の縞模様、片耳が少し欠けている。どこかで何かと戦ってきたような顔だが、目つきはどこか、やさしい。

「……お前、ここに住んでるのか」

 猫はそう問いかけているように、こっちをじっと見つめてきた。まるで「お前こそ、なにしに来た」と言わんばかりに。

「仕事さ。探偵の」

 俺は意味もなくそう答えた。猫には通じない。でも人には言いたかった。それから、俺が歩き出すと、何のためらいもなくついてきた。

「俺を尾行する気か? バレてるぜ」


 途中、二度ほど止まって試したが、やはりついてくる。まるで当然のように。人間なら気味が悪いが、猫ならギリギリ許容範囲だ。


 やがて「The Melt」の看板が見えた。

 猫は迷いもなくそのドアの前で立ち止まり、俺を見上げる。

「おまえ……中入る気か?」

 尻尾がぴくりと揺れた。俺は溜息をつき、ドアを押した。

 中にはいつもの連中。

 マービンがカウンターでグラスを傾けていて、店と見分けがつかないほど酔っ払っている。モーティは奥のテーブルで紙とサイコロをいじっていた。マスターは沈黙の中に立っている。

 猫が入っても、誰も驚かない。この店では「現実」がひとまわり柔らかくなる。俺が席に着くと、猫は足元で香箱を組んだ。マスターが無言でウイスキーを出す。氷が一個、音を立てて沈んだ。


「捜査はどうです?」とマスター。

「完璧だ。誰にも気づかれないくらい……何もしてない」

 マスターは笑いもせず「順調ですね」と言ってグラスを拭いている。


 急にモーティが大声を上げる。

「幻のダイスを夢で見た!透明でさ、投げると過去のミスが見える!」

 猫がビクッととして耳を尖らせた。

「そりゃあ便利だな」

「便利すぎて、壊れた! 夢の中で負けたんだ! 俺の頭がもう……発砲チーズ!」

 俺は笑いながらグラスを傾け――ふと、目をやると、店の奥のテレビに野球中継が映っていた。

「お、ヤンキースか……まだ四回裏か」

 視線がそっちに釘付けになる。ピッチャーが投げるフォーム、観客のざわめき、打球音──全部、俺の記憶のどこかと直結している。

 依頼? 手紙? まあ、試合が終わってからでいいだろ。


 ふと、足元から刺さるような視線を感じた。猫が、じっと俺を見ている。まるで「ほんとにそれでいいのか?」とでも言いたげに。

「……いいんだよ、これが俺のやり方なんだ」

 猫は何も言わない。ただ不思議そうに俺を見つめていた。

 俺はそっとグラスを持ち上げ、氷の音を聞きながら言った。

「……少なくとも、今日はな」

 店の空気はゆるやかに溶けていく。まるで、何もかもが凍らずにすむ場所みたいに。



1997年11月13日14時55分 ニューヨーク ロウアー・イースト・サイド


 俺は死んでいた。

 ベッドと床の間で仰向けになったまま、意識だけが低空飛行をしていた。頭は重い。胃は空っぽ。口の中は砂漠。記憶が戻ってくると同時に、昨日のウイスキーが小さな拳を握って、胃袋にボディブローを打ち込んでくる。


「……ぅ、うぇ……」


 枕元に誰かの視線を感じた。目を開けると、いた。

 猫だった。例の、グレーと黒の縞模様、片耳が欠けたあいつ。じっと俺を見ている。黙って。容赦なく。

「なに見てんだよ……これが探偵の朝ってもんさ……」

 猫は答えない。ただしっぽだけ、ゆるやかに一往復させた。

 まるで、「で、いつ仕事すんの?」そう言ってるみたいだった。

 俺はうめき声をあげながら、枕に顔を埋めた。カーテンの隙間から、やけにまぶしいニューヨークの朝昼下がりが、俺の不始末を照らしていた。


 結局その日は、翌日までこの床の上から動けずに、終わった。



1997年11月14日15時55分 ニューヨーク ロウアー・イースト・サイド


 二日酔いはだいぶ治まったので、もう少し真面目に捜査を再開した。猫の視線による無言の圧力も効いたのかもしれない。

 

 俺は机に向かって、改めて例の手紙を見つめていた。詩的な、多分女性的な文体の手紙。

「……フォント、変わってるな」

 共通して封筒に打ってある依頼人宛の住所に注目した。俺の独り言に、猫がぽいっとデスクに飛び乗る。その拍子に、グラスの横に置いてあったルーペが転がって、手紙の封筒の上にぴたりと止まった。俺は思わずそれを手に取って、文字を拡大して見た。

「……タイプライター、か。インクのムラ、文字の圧……古い機種だな」

 猫は一瞬だけ、尻尾を小さく振った。まるで「やっと気づいたか」とでも言いたげに。


 それだけじゃない。手紙の一文──

「あなたの『昔の癖』は今も変わらないようですね」

「昔の癖?」俺は口に出した。

 女にそんな話は聞いていない。というより、聞き逃すような話でもない。


 そのとき、猫が、ぽん、と書類の山の上に足を置いた。散らかったファイルの端に、女の申込書が挟まっている。そこに小さく「元教師」という文字があった。

「……教師だったんなら、生徒とか、同僚とか、そのへんの誰か、か」

 やれやれ、と俺は立ち上がった。コートを引っかけ、ドアを開けると、猫がさっさと先に出ていった。

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