第四章 ニューヨーク地下鉄のアルバイト 前編
1999年11月3日12時20分 チャイナタウン キャナル・ストリート
探偵業なんてもんは、それだけで食っていける奴なんて、映画や小説の中にしかいない。
チャイナタウンには、壁や電柱に「バイト募集」「部屋貸します」など、ありとあらゆる貼り紙がベタベタ貼られた場所がある。その中に、ひときわ目を引くチラシがあった。
手書きの──それはもう、ミミズが這った方がマシな──字で書かれた一枚だ。端は焦げ、何かの汁でシミだらけだったが、なぜか新品のセロテープでぴっちり貼られていた。
「地下作業員募集(時給:$15)──未経験歓迎。武器支給。ゴキブリ注意。」
最初は素通りしたんだが、三歩ほど戻って、二度見した。
「武器支給」って言葉がなけりゃ、ただの最低賃金の清掃バイトにしか見えない。そもそも地下で何するか書いてないあたり、かなりヤバい案件みたいだな。
「こりゃ、アレか。命の危険あり、ってやつだな」
ひとりごとのつもりだったが、背後から変な訛りのある、やたら威勢のいい声が飛び込んできた。
「お、アニキも興味ありっスか?そのチラシ?」
振り返ると、赤いパーカーの男が立っていた。小柄で坊主頭、がっしりした体格、肌は黒くて唇が分厚い。肩からかけたリュックには、缶バッジがこれでもかってくらい貼りついていた。ひとつには、でかでかと「GUNDAM 0079」と書いてある。
「オレ、チャールズ・G・ベンクマンって言います!よろしくッス!」
いきなり握手を求められて、反射的に手を出してしまった。
「……ベンクマン?『ゴーストバスターズ』かよ」
「名前だけっス。でもGはガチ。オレの中でGっていったら、ゴキブリかガンダムの二択しかないっスよ」
「なるほど、そいつは心強いな……なんでゴキブリ(cockroach)がGなんだ? ギャングかジャイアンツじゃねえのかよ?」
「知らないんスか、アニキ? 日本じゃあゴキブリはGって呼ばれて、それはもう恐れられてるんスよ」
「ここはニューヨークだぜ、兄弟。日本でどう呼ばれようと知ったことかよ」
「まあ、日本生まれ日本育ちのオレだからこそわかることもあるってことで。いいっスか? このバイトはヤバい。それはもう、足のついたジオングばりにヤバいっスね」
言ってることはひとつたりともわからなかったが、男は妙にテンションが高かった。笑ってるのに、目だけが笑ってない。目の奥がギラついてる。一歩間違えば──いや、もう間違ってるかもしれない。どう見ても、普通のバイト志望者じゃねえ。まあ、そもそも普通の奴が、こんな貼り紙を読むわけもないか。
「で、アニキも、ゴキブリ相手に一発ぶちかましたくて?」
「いや……ただ、金がいるだけだ」
「フッ、現実的。でもねアニキ、この街には都市伝説って呼ばれる謎がたっぷり埋まってるんスよ。その一つがG…ゴキブリっス」
「……は?」
「行けばわかるっスよ。俺も見た訳じゃないけど。今はただ、地下に行く。それでいいっス」
なんだか
俺はチラシに書かれた電話番号をメモ帳に書き写した。
1999年11月3日15時20分 シティ・ホール駅近くの地下通路
廃駅になったシティ・ホール駅の入り口は、通気口のような鉄製の蓋の向こうにひっそりと口を開けていた。この下にもう一つの裏プラットフォームがある。
現役のホームから外れたブロック、どこかの倉庫の裏手に回りこんだ先。でかい広告看板の陰に隠れるようにして、そこへ通じる穴は存在していた。
このクソバイト募集主の自称・湾岸戦争退役軍人レム・クワックスは、そのクソ重そうな蓋を軽々とこじ開け、地下への入り口を開いた。中から冷気がブワッと噴き出てきて、こちらの弛んだ気持ちを強引に引き締めた。
「この路線は1950年代で閉鎖されたがな……内部構造は今も生きてる。電力は通ってないが、風はまだ通る。覚えとけ。風が止んだら、あいつらが来る。地下ってのはな、音より先に空気が死ぬんだ」
クワックスの目は本気だった。
迷彩服に身を包み、油の染みた服の袖から覗くぶっとい腕には、ガスマスクを被った鴉のタトゥーが彫ってある。よく見ると、腰に手榴弾みたいなモンまでぶら下げてやがる。こんな親父が住んでんだから、大した街だぜニューヨークは。
俺は支給された工具ベルトを腰に巻き直した。懐中電灯、地図、催涙スプレー、それからなぜか電撃警棒までついてやがる。
「Gが出たら、ためらわず撃て」と、クワックスは言った。
横でベンクマンが笑った。「撃つって、撃つもんがねーっての……アニキ、Gってのはね、ニューヨークの地下でだけ特別な進化を遂げてるんスよ。いわば第四形態。マジでドーム型ヘルメット被ってるヤツとか見たことあるし」
「冗談に聞こえないのが怖いな」と、俺はぼそりと呟いた。
ニューヨークの真っ只中にポッカリと空いた穴。俺たちはその中へ慎重に踏み込んだ。下り階段はコンクリート剥き出しで、段差は崩れかけていた。天井は低く、金網に巻かれた古い配線が蜘蛛の巣みたいに絡み合っている。歩くたびに、足元でガラス片がジャリリと音を立てた。
「足元、気ィつけろよ。昔、ここでホームレスが何人も行方不明になった」
クワックスの声に、空気がすっと冷えた気がした。
「お、怪談タイム?最高じゃないスか。幽霊の方がゴキブリよりマシだもんな。幽霊の撃退法も心得てるし」
「そいつは心強いな……俺はただのバイトのつもりだったけどな」
階段を降りきると、視界がぐっと開けた。そこには、まるで時間が止まったようなプラットホームが広がっていた。
廃駅──シティホール駅。
壁のタイルは剥がれ落ち、貼られたポスターは50年代の映画のやつだ。マリリン・モンローがまだ現役だった頃。けれど色はすっかり抜けて、湿気に濡れて皺だらけ。誰もいないプラットフォームには朽ちたベンチが転がり、飲みかけのペプシの缶が、今もそこにあるかのように錯覚させた。
「地下の空気って、こんなに重かったっけ」
俺が思わず口に出すと、ベンクマンが鼻をひくつかせながら言った。
「うん地下だからっスね。重いものは下に沈むんスよ」
懐中電灯の光が奥を照らす。線路の向こう、封鎖されたトンネルが続いていた。苔が這い、どこか遠くで「カツン……」と金属音が鳴った。
誰かがいるのか。あるいは、何かが。
「……ここからはヤツらの
クワックスの声に促され、俺たちは線路脇の通路を通って、闇の奥へと歩を進めた。懐中電灯の明かりが、錆びたレールの上をゆらゆらと揺らめく。
そのとき、なぜか俺は後ろを振り返った。
誰もいない。
……なのに、ホームの柱の陰で、何かが動いた気がした。
「……気のせいか」
そう自分に言い聞かせて、俺はもう一度、前を向いた。
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『BBCドキュメンタリー:〈地下の迷宮──ニューヨーク・ゴーストラインの謎〉(1993年放送)より抜粋』
(荘厳な低音のストリングスが静かに立ち上がる。薄暗い地下鉄構内の映像。埃をかぶったレール。点滅する裸電球)
ナレーター(渋い英国英語)
「1904年。ニューヨーク──地上の喧騒から逃れたかった都市は、地下に秩序を築こうとした。
最初の地下鉄は、未来への扉として迎えられた。だが、あらゆる扉には裏側がある」
(白黒写真:開通当時のマンハッタン。オーバーレイで「THE BIRTH OF ORDER」)
ナレーター
「一世紀以上にわたる拡張と縮小。予算の崩壊、再開発、そして──忘却。
いま、ニューヨークの地下には失われた駅が数十も眠っている。通称──「ゴーストステーション」
だが、我々が取材した元作業員は、こう証言した。『公式記録の倍はある』と」
(映像:閉鎖されたシティ・ホール駅。美しい天井。埃をかぶったステンドグラス)
ナレーター
「シティ・ホール駅。かつての栄華の記憶。だが、1945年の閉鎖後も、灯りが消えることはなかった──夜な夜な通過したという証言が後を絶たない。
不思議なことに、そのルートを走る列車は、地図上には存在しない」
(画面切り替え:古い地図のスキャン画像。赤いインクで書き込まれた『もうひとつの路線』)
ナレーター
「記録にはない、『Gライン』と呼ばれる謎の路線──20世紀初頭の地図に一度だけ、その痕跡が見つかった。
地下鉄局は関与を否定するが、伝説は消えない」
(映像:スーツ姿の元MTA職員。顔は影で隠されている)
元MTA職員(音声変調)
「『第三層』があるんだ。水平じゃない、垂直に走るトンネル。上層と下層を、言ってみりゃ貫いてる」
(映像:再現VTR。地下深く降りていく若者たち。暗転)
ナレーター
「1981年、都市探検家グループが旧シャトル線跡に侵入。地図にない階段を下った。
テープと共に帰還したが──数日後、彼らも、テープも、跡形もなく姿を消した」
(画面に写る軍のロゴと『CLASSIFIED』の文字)
ナレーター
「記録は存在しない。だが、その捜索報告書にだけは、不可解なラベルがあった。
──保安指定:連邦軍監督下──」
(映像:廃車両群。異様に清掃された構内。静寂)
ナレーター
「幽霊のように、姿を見せず。だが確かに、誰かがその存在を──忘れさせようとしている」
(フェードアウト。タイトル表示)
文字テロップ
“G-LINE:The Ghost Beneath”
Coming up next on BBC Two.
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