第二章 グロリア
1971年5月8日 ニューヨーク ハーレム
その年の春は妙に遅くて、5月だというのに街角の風はまだ冷たかった。
当時の俺は23歳。事務所と呼べるほどの部屋もなく、タイプライターは壊れていて、代わりにノートにボールペンで報告書を書いていた。探偵というより、失業中の学生みたいなものだった。 安物のジャケット、擦り切れたズボン、靴の底に小石が入ったまま。それが俺の「開業一周年」記念だった。
そんな俺の前に、彼女が現れた。
「あなたが探偵のベンジャミン・ハスラー?」
声をかけられたとき、俺は道端のホットドッグ屋でマスタードをこぼしていた。 ふり返った瞬間、股間が縮み上がるような感触を覚えた。
黒いレザーのロングコート、革の手袋、真珠のような首筋。ボブカットの金髪が風に流れ、目だけがこちらを射抜いてくる。
「ええ、そうですけど……依頼なら、残念ながら予約でいっぱいですよ」
「本当かしら」
「……まあ、本当は空白でいっぱいなんですけどね。何でしょう?」
彼女は笑わなかった。ただ、小さく顎を動かして路地の奥を指した。
「コーヒーでもどう? 話があるの」
1971年5月8日 ニューヨーク ハーレム「キングス・ダイナー」
ハーレムの、あの角を曲がったところにあったダイナー──キングス・ダイナー。店内はいつもすこし煙たくて、コーヒーの匂いと古いソウル・ミュージックが染みついていた。
壁際のブースに腰かけていた彼女が、紙ナプキンに何かを書きつけていたのを思い出す。窓の外を黄色いバスが通り過ぎて、誰かがベルを鳴らしてドアが開いた。店主の「キング」は無口な黒人の男で、何年も同じシャツを着ていた気がする。そのとき流れていた曲のタイトルは思い出せないが──彼女が席に座った瞬間、トーストの焼ける音がやけに大きく聞こえた。
その女の名はグロリアと言った。
大人びた雰囲気で年上に見えていたが、あらためて正面から見ると、俺と年齢は変わらないのかもしれない。
「ねぇ、地下鉄って、全部でいくつあるか知ってる?」
俺は手元のシュガーパックを指で揉みながら、少し考えるふりをした。
「それは……答え方によりますね。路線の数という意味ですか? それとも車両のことを?」
彼女はくすりと笑って、テーブルの紙ナプキンに何かを書き始めた。
「そうやって真面目に考えてるようで、実際何も聞いてないところ、探偵としては致命的なんじゃないの?」
笑いながらそう言って、紙袋の中から折りたたまれた何かを取り出した。地下鉄の路線図だった。けれど、それは少しおかしかった。公式のものに見えて、ところどころ手書きの線が足されていた。赤いマジックで引かれた一本の線が、地図の隅から、まるで蛇のようにニューヨークの地下を這っていた。
「これは『Gライン』って呼ばれてるの。Ghost line。存在しないはずの線。でも……存在しないなら、誰が描いたのかしら?」
「それ……何なんです?」
「さあね。前に会ったロシア人の浮浪者が持ってたのよ。バナナと交換にくれたの。その時、こんなことを言ってた。『時間が折れる場所に気をつけろ』って」
「それは……単に気が狂ってるだけなんじゃないですかね?」
「狂ってる人の言葉の方が、時々ずっと正確よ」
そう言って彼女はカップを持ち上げ、残りのコーヒーをひとすすりした。白い陶器の縁に、赤い口紅の跡がはっきりと残る。
「それで……私にこの『お化け線』を辿れと?」
俺が尋ねると、彼女はふいに真顔になり、僕の目をじっと見つめた。
「あなたはもう乗ってるのよ、ハスラー。降りられない列車に」
俺は眉をひそめた。
言っていることもわからなかったし、半分頭がおかしいのか、とも思って聞いていた。さっさと切り上げて席を立たなかったのは、彼女が今まで見た中でも一番美人だったから、それだけだった。
「その列車、終点はどこなんですか?あと終電は何時まで?」
彼女は小さく笑って、言った。
「G。始まりも終わりも、Gよ。七番目の文字」
「アルファベットの話ですか? それとも占星術? それとも……呪い?」
「ぜんぶよ」
そう言い残して、彼女はすっと立ち上がった。代金は置いていかなかった。その代わり、テーブルの上に路線図のコピーを残し、コートの襟を立てて、カフェの扉の向こうへと消えていった。
俺はしばらく動けずに、その背中を見送っていた。それから、テーブルの上の地図を手に取り、広げてみた。赤いペンで、そこに一言だけ書かれていた。
「Beneath the seventh station, the seventh room waits.(第七の駅の下に、第七の部屋が待っている)」
「ちょっと、待ってください」慌てて俺は、彼女の後を追った。
1971年5月8日 ニューヨーク ハーレム レノックス・アベニュー周辺
ダイナーを出ると、街はすっかり夕暮れに包まれていた。
遠くで消防車のサイレンが鳴っていたが、それもすぐに建物の影に吸い込まれていった。
「少し、歩きましょうか」
彼女はそう言って、何かを探すように視線を巡らせた。ハーレムの通りに、似つかわしくない香水の残り香だけがふわりと残る。
「このへん、あまり散歩に向いた場所じゃないですよ」
「だからいいのよ」
彼女はそう言って、俺の袖を軽くつまんだ。
ふたり、並んで歩くには少し狭い歩道を、言葉もなく歩いた。
古いレコード屋のシャッターに描かれた落書き、割れた公衆電話、郵便受けに貼られた「Missing」の紙。
「ねぇ、ハスラー」
「なんです?」
「地下って、どこまで続いてると思う?」
「また哲学の話ですか?」
「違うわ、実際の話。たとえば私たちが立っているこの歩道の、さらに下。電車のさらに下。下水のさらに、もっと奥」
「……うーん。マグマとか、地獄とか」
「そういうの、わりと信じてるタイプなのね」
「少なくとも、あの地図よりは現実的です」
彼女は笑わなかったが、どこか満足げにうなずいた。
ちょうどその時、通りの角で猫が一匹、ゴミ箱の影から飛び出した。白くて、尻尾の先がちぎれている。
「猫は知ってるのよ、どこに“降り口”があるか」
「降り口?」
「Gラインの、ね」
俺はふと、彼女の横顔を見た。高い頬骨、まっすぐな鼻筋、目元のきらめき。
美人にこんなふうに振り回されるのも、悪くなかった。
「名前、本当にグロリアなんですか?」
彼女は小さく息を吐いて言った。
「今夜は、そういう名前。わたしの役目は、最初の扉を開かせること」
その言葉を最後に、俺たちはしばらく黙って歩いた。夕闇がハーレムの隅々に降りてきて、街灯が、ひとつ、またひとつと点き始める。そしてある角で、彼女は突然立ち止まり、こう言った。
「この先に行くと、戻って来られなくなるわ」
「それは、比喩ですか? それとも実話?」
「両方よ。人生って、だいたいそういうものじゃない?」
そう言って、彼女は俺の胸元に指先で何かを描くように、軽く触れた。文字だったのか、記号だったのか、今では思い出せない。ただ、その一瞬だけ、心臓の鼓動がひどく速くなったのは覚えている。
彼女はそのまま背を向け、赤信号の街を渡っていった。姿が闇に溶ける寸前、ふと振り返って、ひと言だけ残した。
「またGの場所で会いましょう、ハスラー」
次に会うとき、彼女がどんな顔をしているのか、それはまだ知らなかった。
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