第17話 追跡 ─逃走の残響─

 5人は無言で走っていた。雨上がりの深水埗、アスファルトがまだ湿っている。街灯の光が路面に滲んで、足音と共に跳ね返る。


 酸素が薄いのか、肺が焼けるように痛んだ。

 冷気で濡れたTシャツ越しに肌へと染み込み、体温を容赦なく奪っていく。

 だが止まれば、ジャスを見失う——それだけはできなかった。


 先頭を行くジークが、息の隙間にささやいた。


「前方、熱感知トリップワイヤー」


 耳を疑う暇もない。彼の指が指し示す先、路地裏のコンクリの床に、赤外線のラインが這うように揺れていた。目を凝らさなければ見落とすほど微かだが、確かにそこにあった。


 風が一瞬、ビルの隙間から吹き抜け、新聞紙を巻き上げる。ネオンの残響、遠くのクラクション、猫の鳴き声——都市の夜が彼らを飲み込もうとしていた。


「仕掛けられてたか……あいつ、用意周到すぎだろ」


 ノヴァが息を吐きながら、壁に拳を打ちつけた。骨が軋む音がした。目の前のセンサーラインが、まだ微かに赤く脈動している。


「通れる。待ってて」


 ふいにトミーが声を上げた。彼はしゃがみ込むと、濡れたアスファルトを指でなぞりはじめる。


 泥にまみれた指先で、排水溝の隙間から細い銅線を引き出した。そこからわずかだが火花が散った。


 そして、近くの壁に取り付けられた制御パネルのカバーがすでに外されているものを見付けると、即座に接続した。


「できるか?」


 アドが低く問いかける。

 彼の声に焦りはなかった。ただ正確な情報を求めていた。


「この世代のセンサーなら、負荷を逆流させれば……5秒だけ機能停止できるはず」


 トミーの言葉は静かだったが、目の奥になにかが宿っていた。


 指先には細かな裂傷があり、血がじわりとにじんでいる。だが、手はまったく震えていなかった。呼吸すらも一定に保たれている。


 わずかにパネルが発光し、トミーの目が細くなった。


「……今!」


 その一言で、全員が同時に地を蹴った。


 赤外線のラインが一瞬、揺らぎ——そして、消えた。


 一秒。二秒。五つの影がまるで一つの意志のように動く。肩がかすめ、息がぶつかる。

 それでも誰も止まらない。踏み出す足が水たまりを跳ね上げ、コートの裾が風に泳いだ。


 センサーが背後で復旧し、再び赤い光が戻ったときには、彼らの姿はもう通路の先へと消えていた。


 誰も振り返らない。追跡は続いている。

 そして、まだ終わってはいなかった。



 建物の裏通りに回り込んだ瞬間、ノヴァがふいに歩を止めた。


「待って……」


 その場に立ち尽くし、鼻をわずかに動かす。濡れたコンクリートの匂いに混じり、違和感のある“何か”が鼻腔を刺していた。


 彼女は指を一本、静かに掲げた。


「……匂いが違うわ。冷却剤と……焼けた金属の臭い。誰かが、電子機器を急いで熱処理してる」


 言葉と同時に、チーム全員が警戒を強めた。空気の流れが違っていた。風もないのに、肌に触れる感触が変わったような、そんな感覚だった。


 数歩進むと、路地の奥に焦げ跡が見える。

 焼かれたノートPCが一台。隣には壊されたドローンが横たわっていた。機体は焼け、まだうっすらと煙を上げている。コンデンサーの爆ぜたような匂いが、まだ空気の中に残っていた。


「……動きが早いな」


 アドがため息をついた。彼の目がノートPCの残骸を見つめる。

 溶けた画面、ひしゃげたメモリスロット。証拠を残さないための処理――雑だが、確実だった。


「でも……ここで偽造パスポートのデータを消してるってことは――」


 アドは横目で目配せをし、言葉をつないだ。


「次は“出国”だ」


 路地に一瞬、静寂が満ちた。誰も口を開かない。

 だが、確かに全員が同じ結論にたどり着いていた。


 ジャスは逃げようとしている。都市の外へ。

 次に動く場所は——港か、空港か、それとも密輸ルートか。


 深水埗の夜に、ふたたび足音が響く。

 残された時間は、もうわずかだ。

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