地下鉄編・4・暴虐
美琴が、慌てて翠蓮の方に駆け寄った。呻きながらうずくまる翠蓮を、そっと、しかし力強く抱き抱える。翠蓮の額からは血が垂れてきていた。
美琴は咄嗟にハンカチを取り出して、優しくその血を拭い取る。
「美琴おばさん、汚れちゃうよ。」
翠蓮は遠慮がちに言うが、美琴は眉を下げて咎めた。その瞳には、娘を案じるような優しい光が宿っている。
「だめ! うちの子にも言ってるけど、顔に怪我なんかしたら、どうするの? お嫁にいけなくなっちゃうわよ。」
その言葉に、翠蓮は痛みで歪んでいた顔を少し緩める。
翠蓮は頭を振って立ち上がった。
「……お嫁さん、きっといくよ、大好きなひとのとこに!ありがとう。今決めた。アーシの結婚式には美琴さん呼ぶから!」
翠蓮は思わぬ言葉で笑いかける。美琴は目を丸くすると、すぐにふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
自分の娘である琴音と、陽介を巡って鞘当てしていることなど、知る由もない美琴は、ただただ翠蓮の無邪気な言葉に微笑み返すのだった。
イチダースに対峙する翠蓮の構えが変わる。ミニスカートには、はしたないが、重心を低く落とし、脚のスタンスを広く取ったその姿は、まるで獲物を狙う猛禽のようだった。
両手は獲物を掴む鋭い爪の形に低く突き出され、その指先からは微かな妖気が滲み出ている。
それは、中国拳法の中でも実践的な
イチダースが殴りかかったその刹那、翠蓮は文字通り視界から消えるような、電光石火の速さでその腕を掴んだ。
肩を入れ、体重を乗せて逆関節でへし折る。ゴキリ、と骨が砕けるような嫌な音が響き、イチダースの巨体が大きく揺らぐ。
「グアァァァッ!」
イチダースが苦痛の叫びを上げた。翠蓮は、力任せに殴りかかってくるイチダースの腕を、掴んでは折る、という攻防を幾度か繰り返す。
やがて、イチダースの腕のうちの半分が、その肘や肩にあたる関節から、不自然な方向に曲がり、ぶらりと力なく垂れ下がっていた。
まるで、使い物にならなくなった肉の塊のようだ。
「もう、ハンダースかな。」
翠蓮はフッと笑い、その瞳の奥に、獲物を追い詰める獣のような、冷徹な光を宿してイチダースに向けた。
・
イチダースの動きが変わる。
半壊した腕も構わず、ゆっくりと両脚と残りの腕に力を溜めながら、確実な足取りで翠蓮に接近する。
その一歩一歩は、巨象が地面を踏みしめるかのような力強さを持っていた。
翠蓮は伸びてくる腕や脚を拳で弾こうとするが、まるで柳に風と受け流されるかのように、意に解さない。
鷹爪拳の関節技は、相手の突進を利用したカウンターの要素があり、ゆっくりとした動作には対応しづらい。
翠蓮の脳裏に、焦りがよぎる。
翠蓮は後方に退却するが、あっという間に地下街の通路の角、退路を完全に断たれた状態に追い込まれる。
イチダースと翠蓮は互いの間合いを潰すように、両腕を掴み合った状態に陥った。
イチダースは残りの腕すべてで翠蓮の両腕を上から抑えつけ、その圧倒的な質量で足の動きを封じた。
その上で、翠蓮の両脚が掴まれる。
(まずい!)
両手に二本、両足に二本の腕で、翠蓮は軽々と持ち上げられた。
必死でもがくが、パワーに勝るイチダースからは脱出できない。
イチダースは残りの腕で、翠蓮にボディーブローを打ち込んだ。
「ぐふう!」
その時、ゴカンッ!と鈍いながらも耳障りな衝撃音が、イチダースの後頭部に走る。
「放しなさい!」
美琴が、通路にあった消火器を両手に持ち、渾身の力を込めて殴りつけたのだった。
翠蓮がもがきながら叫ぶ。
「だめ!やめろおおぉ!」
イチダースは翠蓮を抱えたまま、顔を怒りで歪ませ、美琴を殴りつけ、跳ね飛ばす。
「美琴さん!」
翠蓮の叫びが虚しく響く。跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられた美琴が、ぐったりと意識を失っているのが見えた。
(いやだ……やだ……! アーシが巻き込んだのに、美琴さんまで……!)
翠蓮の顔が哀しく歪む。
(これだけは、したくなかったの。)
翠蓮の瞳の色が、深淵を覗くかのような、禍々しい金へと変わった。
大きく開かれた口腔には、通常ではありえないほどに鋭利な牙が覗き、その息は熱気を帯びている。
悪鬼の如く顔を歪ませながら、翠蓮は目の前のイチダースの、その筋肉が隆起した腕に深く噛み付いた。
翠蓮の背中から粘りつくような黒い影が立ち昇ると、イチダースの身体から、魂を削り取られるかのような苦悶の声が響き渡った。
イチダースは幾度も翠蓮にボディーブローを浴びせるが、その反撃は徐々に小さくなっていく。
その肉体は、生命力を吸い尽くされ、みるみるうちに萎み、皮膚は干からびた木のようにひび割れ、翠蓮を拘束していた腕が力なく外れた。
そこには、見る影もなく乾涸びた肉体が、通路の冷たい床に音もなく崩れ落ちていた。
イチダースの存在が消えたことで、周囲を覆っていた不穏な妖気が、少しだけ薄れたように感じられた。
・
顔を濡らす水滴で、白河美琴はゆっくりと目を覚ました。
ひんやりとした感触が頬に広がり、微かに潮のような、しかしどこか甘いような匂いが鼻腔をくすぐる。
重い瞼をこじ開けると、視界に映ったのは、膝枕の上の光景。目の前には、顔をくしゃくしゃにして号泣している翠蓮の姿があった。
「生きてた〜! 美琴さん、生きてたよぉぉ!」
翠蓮はそう叫びながら、美琴の顔に次々と温かい涙を落とし、まるで雨粒のように美琴の頬を濡らしていく。
その表情は、心底、安堵したように緩んでいた。
「翠蓮ちゃんは大丈夫だったの?」
美琴が問いかけると、翠蓮は小さく頷いた。
どうやってあの危機的状況を回避したのか、美琴にはまったく想像できない。
「うん、あいつは、やっつけた。もう二度と、美琴さんを困らせないよ。」
翠蓮はそう言って、美琴に満面の笑みを向けた。
かたわらで、なにか乾涸びた塊が、さらさらと消えていくのが見えた。
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