伊勢崎町編・6・翠林苑
数日後、横浜中華街の「翠林苑」には、再び活気が戻っていた。
厨房からは威勢のいい声が響き、店内のテーブルは家族連れやカップルで賑わっている。そして、店の入り口近くの席には、陽介と琴音の姿があった。テーブルには、注文した麻婆豆腐や炒飯の他に、頼んでいないはずの料理が次々と並べられていく。
「おっちゃん、これ、頼んでないよ?」
琴音が声を上げると、厨房から顔を出した店主が、満面の笑みで答えた。
「おお、琴音ちゃん、陽介君! いいんだ、いいんだ! 翠蓮が無事に戻ってきてくれたんだ。大サービスだよ、大サービス!」
店主の顔には、これまでの疲労や心配の影は微塵もなく、ただただ娘が無事に戻ってきたことへの喜びが満ち溢れている。その隣には、控えめに笑う翠蓮の姿があった。真新しいチャイナドレスに身を包み、まさに店の看板娘といった雰囲気だ。
「ありがとう、おっちゃん!」
琴音は、早速麻婆豆腐を口に運び「んんんーっ!やっぱこれこれ! サイコー!」と至福の表情を浮かべる。
陽介も、熱々の小籠包を頬張り、「うまっ!これはやばいですね!」と目を輝かせた。
(よかったな、翠蓮……)
陽介は、元気になった翠蓮の姿を見て、心からそう思った。しかし、翠蓮の動きが、以前よりもわずかにしなやかで、猫のように滑らかなことに、陽介は気づいていなかった。
満腹になった二人は、店を後にした。夜風が心地よく、中華街のネオンがキラキラと瞬いている。
「翠林苑、やっぱ美味いなー!また来ようね、陽介くん!」
琴音がご機嫌で陽介にほほえんだ、その時だった。
店の前で客を見送っていた翠蓮が、こちらに近づいてくる。
琴音が何かを感じ取り、顔色を変える。
翠蓮は、琴音と陽介の前に立つと、静かに微笑んだ。その表情は、店での顔とは異なる、どこか妖しさを帯びていた。
「琴音。陽介君。」
その瞬間、翠蓮の瞳がわずかに縦長に変化し、耳の先端が尖り、短い黒い毛が覆う。
琴音もまた、翠蓮の変化に気づき、表情を引き締める。
陽介も無意識のうちにプロトデバイスを構える、警戒の色を強めた。
「……翠蓮……」
琴音の呼びかけに、翠蓮は構うことなく、陽介へと視線を向けた。
「陽介君。」
翠蓮は、ゆっくりと陽介に近づくと、ふわりと抱きついた。 陽介は警戒しながらも、その密着した体に心臓が跳ね上がる。そして、翠蓮は耳元で囁く。
「ねえ、陽介君。人じゃなくなったけど、琴音に飽きたら、いつでも声かけてね、アーシと遊んで? マジ、もっと楽しいこと、教えてあげられるよ?」
そして、温かい舌が、陽介の耳を甘く、ねっとりと舐め上げた。
陽介は、妖しい誘惑に体が硬直する。翠蓮の言葉と吐息が、彼の理性を揺さぶる。
その様子を目の当たりにした琴音は、怒りと焦り、そして複雑な感情がない交ぜになった表情で叫んだ。
「だめ!翠蓮!陽介くんは」
「陽介くんはぁ、琴音のぉ、なんなんだっけ?」
翠蓮は、陽介から離れると、妖しい笑みを浮かべて琴音を見つめた。
「……琴音……。アーシ、ようやくわかったよ、琴音はあんなのと、戦おうとしてたんだね……そりゃぁ人相手じゃ足りないよね。」
翠蓮の表情があの頃の、武を求める少女の、挑戦的なものに変わる。その眼差しには、人間だった頃の、琴音を越えようと追い求めていた輝きが、妖しさの中にわずかに宿っているようだった。
「ふふ。で、人じゃなくなったけど、アンタがもっと強くなりたいなら、ちょー最高のスパーリング相手になれるよ? 全然、いつでも来ていーからね。」
翠蓮は、挑発するようにそう告げると、再び瞳を元の優しい形状に戻し、耳の尖りも消して、静かに店の中へと戻っていった。
(って、半妖?)
翠蓮は、
負けず嫌いで、琴音に遠慮なく正面から本気で関わってくる。そんな翠蓮が帰ってきた。
翠蓮が去った後も、耳に残る感触と妖しい誘惑の言葉に、陽介の心臓はバクバクと鳴り響いていた。
琴音は、そんな陽介を見て、眉をひそめる。
(泥棒猫……!!)
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