伊勢崎町編・4・金華猫


 夜の港。喧騒から離れた倉庫街の一角に、翠蓮は身を潜めていた。昭和の頃から時が止まったかのような、古びた倉庫群。セキュリティも甘く、人目も少ないこの場所は、彼女が身を隠すには最適だった。


(やっぱ、あのときだよね……。)


 翠蓮は、自分の左手の甲に触れた。そこには、二つの小さな傷跡が、まだわずかに残っている。ひと月前の、あの夕暮れ時の記憶が、鮮明に蘇ってきた


           ・


 それは、いつものように慌ただしい夕暮れ時の出来事だった。横浜中華街の「翠林苑」では、店の夕食の仕込みに追われていた。翠蓮は、店の手伝いとして、中国から輸入され配達されたばかりの食材が詰まったコンテナから、冷凍庫へと運び込む作業をしていた。


 重い段ボール箱を抱え、薄暗く冷え込んだ冷凍庫の扉を開けた、その時だ。


 ゴソッ――。


 コンテナの陰から、小さな黒い影が素早く飛び出した。翠蓮がそれが何であるかを確認する間もなく、冷たい感触と激しい痛みが、彼女の左手の甲を襲った。


「ッ……!」


 思わず声を上げる。影は、翠蓮の腕を這い上がり、その肩から首筋を通り、一瞬で姿を消した。まるで幻のように。


 翠蓮は、痛みで左手の甲を見た。そこには、二つの小さな穴が開き、鮮血がじんわりと滲み出ている。チクチクとした痛みが続き、不快な感覚が広がる。


(なんだ、今の……ネズミ…?)


 普段、店でネズミを見ることはめったにない。ましてや、噛みつくなど。しかし、他に思い当たるものもなく、翠蓮は「変な虫にでも噛まれたのだろうか」と、安易に考えてしまった。


「どうした?翠蓮?」


 奥から父親の声が聞こえる。翠蓮は、血の滲んだ手を隠し、無理に笑顔を作った。


「うん、大丈夫! ちょっと段ボールで指擦っただけ!」


 冷凍庫から出た翠蓮は、急いで店の奥にある手洗い場へ向かった。血を洗い流し、消毒液をシュッと吹きかける。ツンと鼻を刺すアルコールの匂いと共に、傷口の痛みがじんわりと広がる。翠蓮は、大きな絆創膏を貼り付け、何事もなかったかのように再び店の手伝いに戻った。


 その夜から、翠蓮の体と心に、微かな、しかし決定的な変化が訪れ始めていた。


 最初は、些細なことだった。深夜、ふと目が覚めると、得体の知れない「空腹感」に襲われる。それは、食事で満たされることのない、もっと奥底から湧き上がるような、おぞましい渇望だった。街を歩く若い男性の姿を見るたび、その生気に、本能的な「魅かれる」ような感覚を覚えるようになる。


 湧き上がる渇望をおさえているとき、鏡で自分の姿をみた。その瞳が猫のように細く、変化していることに気づくようになった。手の甲の傷跡は、奇妙な形に盛り上がっている。


(おかしい……私、どうしちゃったんだろう……)


 ある日、常連の大学生が冗談めかして翠蓮の肩に触れた瞬間、強烈な衝動が走った。脈打つ血管にかぶりつきたくなる、瞳が獣のように変わる。衝動のまま肩に噛みついたが、寸前で理性を取り戻した。肩には薄く歯型が残っていた。


「ご、ごめん!ちょっと、ふざけすぎちゃった!」


 男は笑って許したが、翠蓮の心臓は激しく脈打っていた。

(今、私…何をしようとしたの?)


 自分の内に潜む、制御不能な「何か」の存在を、翠蓮ははっきりと自覚した。このままでは、いつか、知っている人を、家族を、友人を……噛んで……食べてしまうかもしれない。その想像を絶する恐怖が、翠蓮の心を支配した。


(ダメだ……このままじゃ、私が、私じゃなくなる……!)


 翠蓮は、決意した。この恐ろしい衝動から、大切な人たちを守るために。


 その夜、翠蓮は、誰にも告げることなく、慣れ親しんだ家を、中華街を、そして家族の元を離れることを決めた。夜の闇に紛れて、彼女は姿を消した。


           ・


 バイクで帰途につく。琴音はハンドルを握る陽介の背中に、悔しそうに顔を埋めた。

「どうしよう、連れて帰れなかった……。おじさんにも、顔向けできない…」

「いや、琴音のせいじゃない。それに、あの翠蓮は……。」


 陽介は、プロトデバイスに残された翠蓮の光を思い出し、言葉を選んだ。

「琴音も気づいているだろ。あの翠蓮は、何か……憑いているかもしれない。」


 琴音はハッと顔を上げた。

「憑いている。あやかしが。そうだ、あの動き、そしてあの妖気。普通の人間じゃない。それに、あの瞳…。」


 翌日。二人は新横浜地下の開発室に向かい、朽木に昨夜の出来事を報告した。陽介は、戦闘中にプロトデバイスで撮影していた翠蓮の映像を朽木に見せた。

 映像には、一瞬だけ映り込んだ翠蓮の縦長の猫のような瞳や、動きの合間に見えた二股に分かれた尾の影が捉えられていた。


 朽木は、映像を食い入るように見つめ、やがて静かに頷いた。


「……猫又、か?いや……ちょっと違う。おそらく中国の妖怪、金華猫チンホヮーマオだ。」


 朽木の言葉に、琴音は息を呑んだ。


「やっぱり、翠蓮は…!?」

「憑依されている、と見て間違いないだろう。厄介なことに、金華猫は人間の精(生気)を吸い取ることを得意とする妖怪だ。そして、その手口は非常に巧妙で、誘惑によって獲物を廃人にする。」


 朽木がネットから史料を示す。

「これが中国の古典『堅瓠集』に書かれた内容だ。」

『金華猫畜之三年後 毎于中宵蹲踞屋上 伸口対月吸其精華 久而成怪毎出魅人 逢婦女則変美男 逢男則変美女』

「……金華猫を飼って三年、毎晩屋根の上で、月の精を吸い。時を経て妖になり、女には美男に、男には美女に化けて人を魅了する……だいたいそういう意味だ」

「清の時代の『淥水亭雑識』にもある。」

『金華人家忌畜黒猫能夜蹲瓦頂盗取月光則成精為患也』

「こちらは……金華人は猫を忌んでいる。夜、屋根上で月光を盗み、精霊になり患いとなる……か……どう日本にやってきたのかは不明だが」


 朽木の言葉に、陽介は昨夜の翠蓮の妖艶な誘惑を思い出し、背筋が凍った。

(俺も、危なかったのか…!)


「そういえば……。」


 琴音は、何かを思い出したように呟いた。

「最近、伊勢佐木町で、若い男の子たちが無気力に彷徨ってるって報道……みたかも……」


 朽木は頷いた。

「ああ。警察は薬物中毒や過労と見ているようだが、その衰弱の仕方に違和感を覚えていた。まさに、精を吸い取られたかのような症状だ。」


 琴音の顔が、怒りと悲しみで歪んだ。

「翠蓮が……そんなことを!?」


 朽木は続けた。

「金華猫は、憑依した人間の肉体を強化する。特に彼女のように武術の心得がある人間であれば、その力はさらに増幅されるだろう。そして、その憑依が深まれば深まるほど、人間の意識は薄れ、妖怪の意思が前面に出てくる。」

「止めなきゃ……! これ以上、翠蓮に、金華猫に、被害を出させるわけにはいかない!」

「すぐ行こう。」

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