八百比丘尼

 翌週末、陽介は琴音に連れられ、JR大船駅からほど近い丘陵地帯に足を踏み入れた。駅前の喧騒が嘘のように、山道は静寂に包まれている。


「本当にこんな所に?」


 陽介が半信半疑で尋ねると、琴音は神妙な面持ちで頷いた。


「はい。でも、比丘尼様は、いつもは人前にはお出にならないから、私たちも普段はここまでしか来られないの」


 山道を進むと、突如として視界が開け、真っ白な巨大な観音像が現れた。大船観音だ。


「うおおお……大きい……!」


 陽介が圧倒されていると、琴音が観音像の下を指差した。


「比丘尼様の庵は、あの観音様の裏手に。観音様は、腰から下がこの山に埋められているって言われてて? ちょうど、その埋められている部分、つまり観音様の胎内にあたる場所なんです」


 琴音の言葉に、陽介は驚きを隠せない。確かに、観音像が鎮座する丘陵の裏手、木々の深い緑に覆われた急斜面を下った先に、結界に守られるかのようにひっそりと、小さな庵が佇んでいた。


 庵の入り口には、苔むした小さな鳥居と、古びた灯篭が並んでいる。琴音は鳥居の前で深々と頭を下げ、陽介もそれに倣った。


「比丘尼様、琴音です。九条陽介くんと共に、ご挨拶に参りました」


 琴音が声をかけると、庵の奥から木戸が開く音がした。現れたのは身の丈四尺四寸ほどの、まるで小学生のような少女だった。だが、その顔立ちには、幼さとは不釣り合いなほどの深い落ち着きと、古びた知性が宿っている。彼女の右目は固く閉じられ、左目は澄んだ光を湛えている。生成りの麻の着物を纏い、首元には翡翠の勾玉がぶら下がった数珠をかけていた。


「まあ、琴音。よう来てくれた。ほんで、そちらの御仁、陽介はんどすなぁ。琴音から話は聞いとります」


 比丘尼師匠は、穏やかな京都弁で語りかけた。その声は、見た目からは想像できないほど、深く、響きのあるものだった。


「は、はい。九条陽介と申します。あの、初めまして……」


 陽介は、目の前の光景に思わずどもってしまった。伝説の比丘尼が、まさかこんな姿で、しかも京都弁で話すとは、想像の斜め上を行く展開だ。


 比丘尼師匠は、にこやかに陽介を見つめる。その左目には、陽介の持つ水晶玉から放たれる想子力場の微細な光が見えているかのようだった。


「ふむ、琴音の隣におると、あんたからも何ともいえへん清らかな波動を感じるなぁ。……ほう、そらまた、珍しい『たま』を持ってますなぁ」


 比丘尼師匠の視線が、陽介のポケットからわずかに覗いていた水晶玉に吸い寄せられた。


「これは、先日たまたま手に入れたもので。邪なものでなければ良いのだけど」


 陽介が緊張しながら答えると、比丘尼師匠は微笑んだ。


 比丘尼師匠は、陽介が差し出した珠を掌に乗せ、そっと目を閉じた。すると、庵の中に、珠から放たれる微かな光が満ちていく。閉じられた右目の瞼が、わずかに震えているように見えた。


「こら……紛れものうて、想子力場の『観測珠』でおすなぁ。しかも、こない純粋なものは、この世に現存するもんや、他に数えるほどしかあらへんどっしゃろ」


「比丘尼様、この玉、どういう力があるんですか!?」


 陽介は前のめりで尋ねた。


「この珠は、いにしえの卦術師や呪術師が、想子の海を覗くために使うとったもんどす。光や色の意味をわかってるものが、これ使うとその場所の想子の海の状態を手に取るようにわかるんどす」


「まさか、そなたがこない稀な珠を手に入れるとは、不思議な縁どすなぁ」

「あとは、この珠と繋がればこないなこともできるんどすえ。」


 比丘尼師匠はそう言って、ガラス製の水栽培瓶に清らかな水を注ぎ入れた。その中に、何の変哲もない球根をそっと置く。師匠はただ静かにその球根に念じ、一言小さく珠につぶやく。


 数十秒も経たないうちに、球根から緑色の芽がぐんぐんと伸び始め、あっという間に茎が立ち上がり、鮮やかなチューリップの花が咲き誇った。


「咲いた咲いた、チューリップの花が、ちゅうだけやけど。」


 比丘尼師匠は、花咲くチューリップを満足げに見つめながら、控えめに微笑んだ。


 陽介は、目の前で起きた現象に目を見張る。


「デバイスと同じだ、符なしで、卦術が強力に行使されてる。」


 比丘尼師匠は静かに目を開け、陽介に珠を返した。その言葉は、陽介が感じていた玉の神秘性に、確かな裏付けを与えた。


「この観測珠は、想子力場を観測するだけでなく、制御するための触媒でおす。古のモノノフたちも、これを用いて、より強力な卦術を編み出してきはりました。いわば、この世の『理』を読み解き、書き換えるための『鍵』のようなものどすえ」


 陽介の頭の中で、全てのピースがカチリと嵌まる音を聞いた。


「これだ! これがあれば、符演算機(FUM)は完成する! 想子力場をデジタルデータとして精密に解析し、卦術をプログラムのように制御できるはず! 妖怪はバグったプログラム、それをデバッグする最強のツールを、私が作ってみせます!」


 陽介は興奮のあまり、専門用語満載でFUM構想をまくし立てた。比丘尼師匠は、目を細めて陽介の熱弁に耳を傾ける。琴音は、陽介の情熱的な姿に、どこか呆れつつも、尊敬の念を抱いていた。


「ふむ……想子力場を『プログラム』と捉え、妖怪を『バグ』と見なすか。面白い発想でおすな。じゃが、陽介はん、理屈だけで、この世の全てが読み解けると思うてはなりませんえ」


 比丘尼師匠は、静かに諭すように言った。


「この世は数字だけでは割り切れぬ、複雑な感情で編まれておりますのやさかい。人の心、妖怪の情念。それらもまた、想子力場に大きな影響を与えます。技術だけでは、解決できぬ『ことわり』も存在しますのや。その才、どこまで届くか、見せてもらいまひょか。ただし、道を誤らぬよう、常に己の心と、この世の『理』に、よう向き合いなはれ」


 比丘尼師匠の言葉は、陽介の胸に深く刻まれた。それは、単なる助言ではなく、彼がこれから歩む道への、慈愛に満ちた、しかし厳粛な戒めだった。


          ・


 比丘尼師匠の庵を後にした陽介は、観測珠と新たな知識を得て、FUM開発への情熱をさらに燃え上がらせていた。自宅に引きこもり、食事も睡眠も惜しんでジャンクパーツを漁り、プログラムを組み上げていく。


 深夜、陽介が開発中のFUMの回路図を睨んでいると、窓の外から気配を感じた。


「おや、旦那様だんなはん夜更かしは、お肌に毒だんすえ」


 窓辺に腰掛け、妖しく微笑む女がいた。夜織だ。ダイヤのピアスが目に付く。彼女は高価なブランドアクセサリーを身につけ、現代の欲望を模倣するかのように、人間たちの『崇拝』の記号をまとっていた。


「よ、夜織? いつからそこに?!」


「ふふ、あちきは、ただ、そなたの様子を見物しに参ったまでよ。しかしまあ、旦那様は相変わらず、無骨なものに夢中でいらっしゃるのねぇ。そんなことでは、おなごに嫌われちまいんすよ」


 夜織は、陽介の机上のFUMの設計図をちらりと見て、くすくすと笑う。


「いやいやそれより、どうしてそんなに早く俗世の価値観に染まれるの!? どうすれば、そのとんでも高価なアクセサリ即座に買えるの?」


 陽介が問い詰めると、夜織は扇子で口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべた。


「ふふ、あちき、この世の愉悦というものを存分に味わっておりますがゆえ。男どもが、わらわにぞっこんでね」


 陽介の脳裏に「化物が精を吸い男を骨抜きに」する、小泉八雲の怪談がよぎる。ゾワリと背筋が寒くなった。


「さて、旦那様。ちょうど良い。わらわ、ちょいと気になる『バグ』を見つけてしまいんしてね。そなたのその『たま』で、見ておくれよ」


 夜織はそう言って、陽介に近づいてきた。彼女の動きは、まるで滑らかな水のように、陽介の目の前で止まった。その瞬間、陽介は反射的に、観測珠を夜織に向けてかざしてしまう。


 次の瞬間、陽介の目に映ったのは、衝撃的な光景だった。

 観測珠を通した夜織の姿は、琴音のそれよりも濃厚な情報を有していた。肉体というより複雑な想子力場の集合体として視覚化されたのだ。それは、彼女の体温や血流、筋肉の動き、そして感情の揺らぎまでが、色とりどりの光の粒子や波紋として、鮮明に「透けて」見えてしまう状態だった。そして、その中でも、特に生命エネルギーが凝縮されているであろう、彼女の胸部や、鼠蹊部など女性的な曲線美が、光の輝きを増して陽介の視界を埋め尽くした。


(う、うおおおっ!? な、なんだこれ!? やっぱすごい黄金比……ナイスバディってこのことをいうのかあああああ!!)


 陽介の顔は、真っ赤に染まり、鼻息が荒くなる。観測珠がもたらした予想外の「視覚化」能力に、彼の理性は吹き飛びそうになる。


「九条くーん、最っ低ー。なに見てるの!そういう道具にするの!?」


 背後から、琴音の咎めるような声が聞こえた。いつの間にか、心配して様子を見に来ていた琴音が、その状況を目の当たりにしていたのだ。琴音の眉が顰められ、顔も真っ赤になり、陽介の観測珠を奪おうとする。


「は、いや、だって! これは、珠の機能が! その、勝手に! 琴音さん、誤解!」


 陽介は珠を手元に確保しつつ、しどろもどろに弁解するが、夜織はそんな二人を面白そうに見つめ、くすくすと妖しく笑っていた。


「ふふ、旦那様、随分と面白い『目』を持っておるのねぇ。あちきの全てを見通すとは、なかなかやりおる」


 夜織は、陽介を品定めするかのような視線を送り、彼の動揺をさらに煽る。琴音は、夜織の挑発的な態度と、陽介の情けない姿に、怒りともやもやが入り混じった表情を浮かべていた。


(夜織さんの身体が透けたってことは、私の時も……いや、見えたとしても、それは実験だったんだから……! でもなんで私のときは陽介くんおかしくならなかったの!? いや、見られても困るんだけど……!)


 琴音の心中は、混乱と、ごく微かな「自分も女性として見てほしかった」という、本人も自覚していない複雑な感情で渦巻いていた。

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