灰布の都
スミツボ
第1話 神の前で
波が荒れ狂い、船を飲み込もうとする。嵐の怒りが、まるで生き物のようだ。
「船の下に……何かいる!」
鋭い声が悲鳴の渦中から響き、全員が息を呑む。言葉にするのも恐ろしい“何か”が、海底から迫っているのだ。
突然、それは現れた。巨体が波間を割り、空にそびえ立つ。飛沫が空を覆い、船は激しく揺れた。乗船者たちは声を上げ、しがみつくものを探す。
「もう一度来るぞ!つかまれ!」
叫び声とともに、船員が甲板を走る。巨大な影は海中で反転し、狙いを定めたように船へと向かってきていた。そして――再びその姿を現したとき、巨大な口が空を裂くように開いた。苦しそうな唸り声とともに、まるで何かを吐き出すような動きを見せる。
その瞬間、船は赤子の玩具のように揺さぶられた。だが、やがて“それ”は満足したかのように動きを止め、再び海中へと姿を消した。
静寂が訪れ、波も穏やかさを取り戻した。甲板に倒れ込むように横たわる人影がある。彼の白い衣はずぶ濡れで、海水と共に船に吐き出されたようだった。
「まさか、魚から来たのか?」
呟いた誰かの声に全員の視線が集まる。魚から……?信じられない。しかし――
「見たぞ!あの方は魚の中から出て来られた!」
興奮した声が上がる。「神が魚を通じて使いを送る」と語り継がれてきた伝承が、脳裏をよぎる。だが、この状況に即した理解を追い求める心は混乱を抱えたままだ。
「魚から出て来られるのを見たぞ! この方はナブ様の使いではないのか」
誰かが断言する。疑念の影は残りつつも、その言葉は波紋のように広がり、やがて希望の光となりつつあった。
確かに我らの神は魚から使いを送られるという、しかし。いや。頭をふって、疑念を打ち消す。魚から出てきた人間など、聞いたことがない。
「あのような怪物から現れるなど、ただの人間であるはずがない!」
船長が強い声で断言する。「この方こそ、帝国の危機に際して遣わされた救済者なのだ!」
その言葉は波紋のように広がり、やがて場の雰囲気を一変させた。人々は震えながらも、それを受け入れ始める。神話にしか存在しないはずの奇跡が、今まさに現実となったのだ、と。
だが、その中心にいる男だけは、全く状況を把握できていなかった。
ベトベトに濡れ、白い衣が肌に張り付き、彼はぼんやりと人々を見回した。その鼻を刺す魚の臭いが、自分の状態を際立たせる。
「何を言っているのだ?」
かすれた声でそう呟く。
男の頭の中には、嵐の記憶が断片的に浮かんでは消える。何が起きたのか、なぜ自分がここにいるのか、思い出そうとするたびに、鮮烈なイメージが脳裏に焼き付く――荒れ狂う波、暗闇の中で近づいてくる巨大な影。そして、海の底へと飲み込まれていく感覚。
「確か……あれは……」
記憶を辿ろうとするが、頭に浮かぶのは曖昧な断片ばかりだった。彼を取り囲む人々の歓声と尊敬の眼差しが、その困惑をさらに深めていく。
_________________________
まだ鳥のさえずりは聞こえない。静寂が支配する朝。
巻物をそっと閉じ、心を整えながら朝の礼拝を終える。澄んだ空気が、まるで世界と自分を切り離すように静まり返っていた。
その時だった。
突如、背中に何かが触れた。温もりとともに包み込まれる感覚。次の瞬間、轟音とともに激しい風が家を揺らし、壁がきしむ音が響く。
混乱の中、耳元に小さな声が届いた。
「ヨナよ、ヨナ……。立って、ニネベに行き、呼ばわれ。悪がわたしの前に上ってきたからである」
ハッと顔を上げる。だが、そこには誰もいない。ただ静けさだけが戻っていた。
しかし、その声は確かに聞こえた。それは耳ではなく、心に直接届くような――神の声。
「これは……神の声だ!」
ヨナの胸の中に歓びが湧き上がる。心臓が高鳴り、手足が震える。その感覚は恐れではなく、神に選ばれたという確信の喜びだった。
家の中を見渡し、無事を確かめると、ヨナは感謝の祈りを捧げ、勢いよく外へ飛び出した。
預言者――それは神の意志を聞き、人々に伝える者。王を諫め、不正を正し、弱き者を助ける使命を持つ者。だが、現実はどうだろう?
ヨナは家を出て少し歩いたところで足を止めた。興奮が冷め、冷静さが戻るとともに、先ほどの言葉が重くのしかかってくる。
「ニネベに行け、だと……?」
市場に差しかかった頃、ヨナは立ち止まり、独り言を呟き始めた。その姿を見て通り過ぎる人々が怪訝な表情を浮かべる。まだ若いとはいえ、家庭を持ってしかるべき歳の男が市場で一人ブツブツと呟く姿は奇妙でしかない。
「ニネベ……」
ヨナは反芻するように言葉を繰り返していった。
何かの間違いではないか。ヨナは必死に自分に言い聞かせる。そうだ、何かの幻覚だろう。疲れが溜まっていたせいに違いない。そうやって理屈を並べて、心に湧き上がる不安を押し込めようとする。
だが、背中を包んだあの大きな手の感覚――
その温かさと圧倒的な存在感は、どうしても頭から離れない。脳裏に深く刻まれたその瞬間が、否定しようとするたびに鮮やかによみがえる。
ニネベ――それは敵国アッシリア帝国の首都。戦争を礼拝と称し、侵略を繰り返す者たち。
「戦争が礼拝ってどうなのよ」と、ヨナはぼそりと呟いた。「おとなしく歌ったり、お祈りしていればいいじゃないか」
預言者は時に王を恐れず諫言を述べ、社会の悪を正す勇者であるべきだ。だが、それは理想論だ。命が惜しいのは当然のこと。それに、敵国の真っただ中に乗り込むのは、正直言って、無謀だ。
「命は一つしかないんだぞ……」
自嘲気味に呟きながらも、ヨナの足は自然と歩を進めていた。行くべき道を理解していながら、その重みが彼の心を締めつける。
そんなことを考えながら、市場をぶらぶらとしていると、後ろから声をかけられた。
そんなことを考えながら市場をぶらついていると、背後から陽気な声が響いた。
「おー!ヨナじゃないか」
振り向くと、一人の大柄な兵士が立っていた。髭を蓄え、ガハガハと笑う姿は、まるで山奥の熊が町に下りてきたようだ。その迫力に圧倒されつつも、ヨナは生返事を返す。
「あー」
顔を向けながら、彼がなぜ声をかけてくるのかを思い出す。この兵士の子どもを病から救った一件以来、彼は何かとヨナに親しげだ。それにしても甘い果物が大好物とは、この体躯からは意外だな、と考えていると、兵士が怪訝そうな顔をした。
「なぁーに、考え事してんだ? またこの国の世情でも憂いているのか?」
「いやいや、なんでもないさ」
ヨナは慌てて否定する。まさか、熊のような見た目の男がイチジク好きだという事実から、「熊も甘いものが好きなのか?」といった取るに足らないことを考えていたとは言えない。
「まあ、預言者さまからすれば、この国は堕落しきっているかもしれんなあ」
兵士は唐突に神妙な顔つきになり、そう呟いた。その様子にヨナは内心ほっとする。どうやら彼は勘違いしてくれたらしい。
確かに、この国は堕落していた。忠臣たちの声を無視した結果、国は二分され、不正が横行し、王たちは異教の儀式に熱を上げていた。だが――
「それがどうした?」とヨナは心の中で呟く。シワ一つない若造の言葉など、この国にとっては風の音ほどの価値もない。そんな冷めた思いが胸の奥で広がる。
市場の喧騒の中、ヨナは一歩を踏み出した。その足取りは軽いように見えたが、心の中では葛藤と諦念が絡み合い、彼を縛り付けていた。
「それでも、一人でも神に忠実なものがいるなら、神はこの国を祝福なさるだろう」
ヨナは預言者らしい言葉を口にしたが、心はどこか上の空だった。その言葉を聞いて、兵士はますます敬意を深めたようで、大きくうなずく。
「そうだな!」
ヨナが内心やれやれと思っている間に、兵士は声をひそめてヨナを路地裏へと誘った。
「ここだけの話なんだがよ、あの野蛮人どもに、ついに神の正義が下される時が来たらしい」
「アッシリア帝国にか?」
「そうさ。探り人の話だと、ウラルトゥとの紛争でアッシリア軍が破れたらしい。そして、前線を突破した軍がそのまま首都に迫っているそうだ」
「なるほど……」
ヨナは興味を装って頷く。兵士は話に熱を帯びた様子で続けた。
「今回は勢いを止められず、周辺の町々からも人が逃げ出しているって話だ。アッシリアもどうしようもないらしい」
ヨナの脳裏にアッシリアの名が響く。彼らはまさに戦闘民族。その圧倒的な軍事力で恐れられる一方、残虐さで多くの恨みを買っていた。宮殿の壁に生け捕られた敵将を埋め込み、攻め落とした町の人々の頭蓋骨を高く積み上げる――そんな行いを「ゲーム」として楽しむ国だ。考えるだけで胸がざわつく。
「貴重な情報をありがとう」
ヨナは軽く頭を下げた。兵士は満足げに笑うと、のそのそと仕事に戻っていく。その巨体を見送りながら、ヨナは思わず肩をすくめる。
「ああ見えて、将校とはな……」
それにしても、この話が神の指示とどう関係するのか。ヨナの胸には、じわじわと不安が広がり始めていた。
さて、戦闘民族として知られるアッシリア帝国軍が破れ、その敵軍が首都ニネベに迫っているという。
滅びたらいい。ヨナは思わずそんな考えに囚われた。預言者らしからぬ思考だと自覚しながらも、あの犯罪と暴力の町に向かうなんて、常軌を逸しているとしか思えない。そもそも、敵国に赴くなど、祖国に戻ったときに裏切り者と見なされるのではないか。
預言者――それは命を惜しむことなく使命を果たす賢者であるべき存在だ。しかし、ヨナは肩をすくめながら、口の中で愚痴を零した。
「そんなの、ただの人間には無理だろ……」
どこか投げやりな気持ちで、ぼんやりと足を港へ向ける。
そもそも、神への信仰が根づいているはずの自国ですら改革を起こせず、むしろ諦めつつある現状だ。それが、戦争を礼拝とするような人々に変革を促す? それこそ無理難題だ。
ヨナの祖国にとって、アッシリア帝国は絶え間ない脅威だった。絶妙な政治的バランスを保ってはいるものの、その均衡はまさに風前の灯火。アッシリアの覇権にのみ込まれていないのは、ただ運が良かっただけのことだ。
「滅びるなら、それは神の正義だろう。それで十分じゃないか……」
ヨナの胸にはそうした思いが渦巻いていた。なぜ、自分が命を賭してまであの高慢な町のために働かなければならないのか。
彼の心に浮かぶのは、自分の行いが虚しく終わり、人々に嘲られ、なぶり殺される未来だった。想像すればするほど、その光景が鮮明になる。
「こんな使命、無意味だ……」
ため息交じりに顔を上げると、港に船が入っているのが見えた。気づけば日はすっかり高く昇り、考え事をしている間に、いつの間にか足は港に着いていたのだ。
アッシリアへ行くのはやめよう。それが賢明だ。ヨナはそう判断を下した。途端に、人々で賑わっていた港が、一転してシンと静まり返ったように感じられた。喧騒が遠ざかり、空気が冷たさを増す。急に寒気を覚え、肩を震わせながら足を速める。
胸の奥で、良心が激しく鼓動する。それを無理に抑え込みながら、ヨナは歩を進めた。神からの使命かどうかなんて、結局のところわからないじゃないか。無理なものは無理だ。そう言い聞かせながらも、心のざわつきは収まらない。
ふと視線を上げると、一隻の商船が目に入った。その周囲では人々が楽しげに話している。
「あの船はタルシシまで行くらしいぞ」 「へー、世界の果てまで行くのか! ロマンがあるねぇ」
その会話が自然と耳に入ってくる。どうやら今日はいつもより港が賑わっているのはそのせいらしい。ヨナは商船を見つめながら考えた。タルシシ――世界の果て。そこへ行けば、アッシリアも、自分の国のことも、この大陸全体のことも、何もかもが関係なくなる。そんな思いが頭をよぎった。
気づけば、一歩足が船へ向かって出ていた。しばらく自由に過ごしてもいいのではないか――幼い頃から預言者の学びに明け暮れ、世俗の楽しみからは遠ざかっていた自分を思い返しながら、そう考える。これまで頑張ってきた分、少しぐらい気分転換しても罰は当たらないはずだ。誰だって、休息が必要ではないか。
そんなことを考えているうちに、受付に手を置いていた。
「タルシシ行きにご乗船されますか?」 「少し考えているのだが、いくらになる?」
商船の受付では、旅人からも料金を取り、小銭を稼ぐのが常だ。嵐で破船するリスクがある以上、船を出すこと自体が博打のようなものだ。少しでも収入を増やそうという考えだろう。ヨナはそう思いながら、求められた金額を台に置いた。
「重さを測らせていただきますので、少々お待ちください」
受付の男は金を注意深く秤に乗せ、確認している。ヨナはその様子を眺めながら、自分の準備の良さを内心で認めざるを得なかった。歴史を学んできたおかげで、預言者が命を狙われることもあると知り、こっそり隠し持った金が、今こうして役に立っているのだから。
小心者の鑑というか、用意周到というか、いずれにしてもその「いざ」が役に立ったのだ。
「問題はございませんでした。確かに料金を受け取りましたので、ご乗船ください」
受付の声に軽く頷きながら、ヨナは船へ向かう。足取りには少し解放感が混じっていた。だが、遠くで大きな神の手が港へ近づいていることに気づくことはなかった。
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