第17話 妹を超えたその瞬間に、僕は覚悟を決めた

 玲奈先輩の前から……部屋から逃げ出した、その日の夜。

 足音を殺すように階段の陰へ滑り込み、背を壁に預ける。


(……ごめん、玲奈先輩……)


 背中に残るぬくもりも、耳に残る囁きも、今はただ胸を締めつけるだけ。

 “男”である自分が、それを隠したまま、誰かの好意に甘えていいはずがない。

 拳を握りしめたそのとき――


「……お兄ちゃんって、ほんと、バカ」

「……え?」


 顔を上げると、制服姿の美月が立っていた。

 廊下の淡い光に照らされ、長いまつ毛が濡れた影を落としている。

 その手には、ぐちゃぐちゃになったハンカチ。


「……見てたよ。玲奈先輩の部屋から飛び出してきたところ」

「それは……っ」


 美月は一歩近づく。

 肩が、かすかに震えていた。


「わたし、ずっと思ってた。おにいちゃんがこの学園に来て、女の子に囲まれて、楽しそうに笑ってるのを見るたびに――胸の奥が、チクチクしてた」


 廊下には風もなく、時計の針の音すら届かない。

 その静けさの中で、美月の声だけがやけに鮮明に響く。


「“男の子”なのに、それを隠して、“女の子”として好きって言われて……

 それって、ずるいよ」

「美月……」

「わたしは、誰よりも早く“本当のお兄ちゃん”を知ってたのに。誰よりも近くにいたのに。なのに――“妹”ってだけで、好きってことすら言えないんだよ?」


 涙をこぼすまいと、まばたきを何度も繰り返す。

 けれど、その瞳は揺れずに、まっすぐ悠を射抜いていた。


(……美月は、ずっと自分の気持ちを押し殺してきたんだ)


 悠はそっと歩み寄り、震える指先を包み込む。


「……ごめん。気づいてあげられなかった。守るって言いながら……逃げてたのは、俺の方だった」

「……っ」

「俺がここに来たのは、“守る”ためだった。

 でもな、美月。誰かの優しさに甘えるだけじゃ、きっと何も守れない」


 言葉と同時に、手に力がこもる。


「これからは、守る“側”になる。妹としても……ひとりの大事な人としても。

 美月の涙も、俺が拭えるように」


 美月は、きゅっと唇を結び、そして……ほんの少しだけ笑った。


「昔からそうだったよね……バカなんだから。でも……そういうとこ、嫌いじゃない」


 その笑顔は――もう“妹”としてだけのものではなかった。

 ひとりの異性をまっすぐ見つめる、恋する女の子の顔だった。


(……逃げない。これからは、ちゃんと美月とも、玲奈先輩とも、みんなとも、向き合おう)


 ――――この夜。

 悠の中で、初めて“男の覚悟”が、確かに灯った。




 …

 …

 …

 Side Story:美月


 玲奈先輩の部屋から飛び出すお兄ちゃんの背中を、私は見ていた。

 その背中は、少しだけ震えていて、でも振り返ろうとはしなかった。


(……やっぱり、逃げたんだ)


 優しくしてくれる。笑ってくれる。

 でもそれは、あくまで“女の子として”の姿で。


 私だけが知っている本当の顔は、遠くに隠されている。

 ぐしゃぐしゃになったハンカチを握りしめながら、必死に涙をこらえる。


「……バカ。でも……そういうとこ、嫌いじゃない」


 あれが、私の限界。

 これ以上踏み込めば、妹じゃいられなくなるから。


 ――でも。


(もし、お兄ちゃんが“男”として誰かを選ぶ日が来るなら)


 私は、その瞬間まで隣に立つ。

 妹としても、ひとりの女の子としても。


 最後まで――諦めたりなんて、しない。

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