第3話
「もう少しで山頂だ。
そこでしばし休もう」
馬の首に手を当てながら、話しかける。
「さすがに疲れただろう。最近山岳地帯を駆け回ることもなかったからな」
馬超はそう言ったが、馬はブルルと嘶き、首を大きく上下させた。
遠駆けをやめて帰ろうとすると、いつもする仕草だった。
まだ全然疲れてないから、もっと遠くまで行こう。
そう言ってるように馬超には感じられる。
実際、馬の足取りは全く疲れてはいなかった。
涼州騎馬隊は自分で自分の馬を選ぶ。
牧場地に入ると、仔馬がぴょんぴょんと駆けて来た。
軍馬用の牧場は仔馬には危険なので、別の囲いの中に移しているのに、飛び越えて紛れ込んだらしい。
仕方なく連れ出したあと、馬を吟味していると、ふといつの間にかまたその仔馬が後ろからついて来ていた。
『今忙しい。あとで構ってやるから外にいろ』
生まれつき、頑固な馬というものがいる。
鞍や手綱を嫌い、軍馬にしようとすると、反抗的な性格が出るものもいる。
人を決して乗せないものも。
幼い頃からそういう特徴が出ているのは、規律にしばられる軍馬には向いていなかった。
『この馬を放牧地の方に連れて行ってくれ。軍馬には向いてない』
人に頼んで、真剣に馬群から良い馬を選び出した。
選んだのは五頭で、乗って駆らした感覚も遜色なかった。
あとは好みや相性だろう。
下の二人の弟が乗っても良い馬だと思ったので、五頭連れ帰って選ばせることにした。
屋敷に戻って過ごしているとある日、弟達が仔馬と遊んでいた。
もう子供ではないのだから仔馬と遊んだりするなと叱ろうとして、気付いた。
あの仔馬である。
『兄上の庭にいました』
下の弟が言った。
『連れ出そうとしたら逃げ回るので、網で捕まえようと』
『なんだ。捕まえようとしてたのか。遊んでいるのかと思った』
『仔馬だからすばしっこいのです。それに気性が荒い。気をつけたのですが噛まれました。
こいつ首をすごい角度で後ろに折り曲げますよ。身体が柔らかいんだなあ』
牧場から屋敷は、山一つ向こうに離れていた。
『呆れた奴だ。ついてきたのか』
馬超がため息をついて額を撫でると、少し首を下げた。
暴れ回った身体は汗を掻き、栗色の毛がぴかぴかしていた。
『俺達が捕まえようとしたら大暴れしたのに』
庭に放っておくことにした。
世話はいらんと放置したのだが、馬はいつも樹の側に立ったまま、じっとしていた。
夜に見かけてもじっと立っていて、休んでいる姿を見たことが無かった。
ある日、嵐が来て、夜じゅう凄まじい風が吹き荒れていた。
翌朝、付近の田畑も庭の草木も大変なことになっていて、さすがに逃げていっただろうと思ったのだが、同じ場所に立っていた。
夜じゅう風と雨に揉まれていた鬣はボサボサで、身体にちぎれた葉っぱや花びらが模様のようにくっついていた。
さすがに馬超はその有り様に声を出して笑ってしまった。
『お前みたいな頑固な馬を見たことがないよ』
馬超は苦笑して、負けを認めた。
『俺が乗るにはまだ小さいけどな。もう少しお前が大きくなったら、俺が乗ってやろう』
汚れた身体を丁寧に洗い流してやり、庭の側にあった馬房に入れてやった。
すると今までの頑固がなんだったのかと思うほど素直に入り、草の上に横たわった。
その夜初めて、その仔馬が熟睡している姿を見た。
それからずっと世話をし、乗って来たのだ。
そろそろ牝馬を寄せて、一頭くらいこいつの血を引く仔馬が欲しいと思っていた頃、
それ以来、心も身辺も落ち着くことがなく、そのままになってしまっている。
馬は生まれたものにすぐ乗れるわけではない。
成長を待たなければならないから、今のうちにこの馬の仔馬が、何頭か欲しかった。
(俺に似てしまったな)
十代の頃に
というのも許嫁という形で幼い頃に将来を約束していた娘がとっくにいたからだ。
妻はいたのに、今忙しいからなどと涼州騎馬隊に専念していたら、いつの間にか涼州に自分は居場所が無くなり、
今ではどこにいるのかも分からない。
いつか子供を持って自分の家庭をとは思っていたはずなのに、馬一族としての使命に夢中になっているうちに、妻の元に帰る時期を逸してしまった。
全てを後回しにして、自分の思うように生きて来た。
後悔する方が間違っている。
今となっては子供がいなかったのが良かったかもしれない。
どこかで誰かを見つけて夫婦になり子を産めば、女は母になれる。
その男の妻に。
(だが俺は、今や、何者でも無い)
自分を
涼州を追われ、そこでの居場所はなくなった。
馬が
「そうだな。お前だけが俺の側から離れんな。全く、頑なな奴だ」
馬超は少しだけ、声を和らげてそう言った。
山頂にやって来た。
広く、北の地を見通せる。
ふと……、
北を眺めていた馬超は夜闇の中、ぼやり、と灯りが浮かんだことに気付いた。
遠くの山間だ。
こんな雷雨の中でも、はっきりと見えた。
炎だ。
妙に思ってじっと見ていると、
その付近に、同じように複数の灯りが浮かび上がった。
燻る煙が立ち上っている。
雨の中でも炎が見えた。
よほど、強力な火種があるのだろう。
「あの辺りは……」
村だ。
村が燃えている。
「敵襲か!」
馬超はすぐに合図を入れた。
馬は走り出し、泥の斜面をものともせず、風のように駆け出した。
「急げ! 必ず間に合わせろ!」
馬が大きく嘶いた。
閃光が瞬く。
上空を雷が、まるで龍のように走った。
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