花天月地【第57話 心が凍り付く前に】

七海ポルカ

第1話



 蝋燭の火が消えると、窓の外が明るくなり始めていることに気付いた。


 諸葛亮しょかつりょうは首の辺りを手の平で揉み解す仕草をすると、立ち上がり、執務室から庭へと出た。


 彼の執務室は最初、成都せいとの城の最上階に置かれていたのだが、あまりに諸葛亮が執務室に籠もるので、時々は気安く外に出れるようにしてやらねばと劉備りゅうびの計らいで、奥の庭に面した地上階に移った。

 ここは城壁に面していて庭があるが、そこから一切侵入出来ないようになっている。

 遠くには北方へ続く山脈が見通せて美しいが、実は諸葛亮が気に入っているのは、庭の南に広がる荒野に転々と小さな村が見えることだった。


 田んぼと畑が見えて、時々思い出して見に行くと作物が育ってたり、収穫されていたりする。

 ある時収穫している作業を偶然見たので、収穫祝いに酒と織物を少しそこに届けさせた。

 するとその村人が城に出入りする商人に感謝の文と、収穫した野菜を送ってくれた。


 諸葛亮はその心遣いがとても嬉しくて、劉備に話すと彼も嬉しそうに笑っていた。

 

 それからその遣り取りは続いている。

 あまり大事にしたくないのであくまでも諸葛亮個人と、その村人の遣り取りにしてもらっていた。


 今年は秋は、よく作物が取れたと言っていた。


 今は収穫を終え、田畑には何もない。

 景色は寂しくなったが、春に向けて畑を整えている。

 寒さに強い作物を今は少し植えているようだ。

 

 種を植え、実りを待ち、収穫を終えると、一つの命の営みが終わる。

 その実の最後まで人間が頂き、人がまた畑に作物を植える。


 そういう遣り取りを見ていると、心が少し和らいだ。



「おはよう」



 諸葛亮しょかつりょうは振り返った。


「これは、おはようございます」


 庭先に現れたのは孫黎そんれいだった。

 彼女はニコニコしていたが、諸葛亮が振り返り一礼すると、少し不満げに唇を尖らせた。


「貴方ってホントにどんな時でも驚かないのね。

 さすがに今日は、少しくらいアワアワするとこ見れるかなと思ったんだけど」


「いえ、驚いています」

「全然そう見えないわ」


 実際、諸葛亮は驚いていた。

 顔に出るくらいは驚いたと思うのだが、元々彼は感情が顔に出にくいのである。

 この庭は執務室にしか面していない。

 その先は城壁が眼下にあり、とても上ることの出来ない高さだし、あとは地上が繋がってない。

 隔離された区画なのだ。

 かつて劉璋りゅうしょうが住んでいた頃は、愛妾の庭だったらしい。


 気付いた。


 隔離された区画だが、上階がある。

 上階の渡り廊下の先は、劉備の寝室だった。

 見上げると、一本の大きな木がある。

 春には美しい桜が咲くが、今は枯れている。

 辛うじて渡り廊下から唯一庭に直接届きそうなものだ。

 尤も、リスでもない限りあれを伝って下りてくるのは無理だと諸葛亮は思ったが。

 そこで分かった。リスでもないが、伝って下りて来たのだろう。


「奥方様が武芸者であられたことを失念しておりました」


 頬を膨らませていた孫黎そんれいは、明るく笑った。

「でも何故ここへ……」

「貴方と一度話してみたかったから。いつも忙しそうでしょ? 呼び出すのは悪いから、庭に出て来た時ならちょっとくらいいいかなって見計らってたのよ」


 見計らってたにしてもこんな夜も明けきらぬ明け方だ。

 多分彼女は、劉備の寝室にいながら、諸葛亮が下の庭に現れるのを待っていたのだろう。

 そう気付いた。

 無論、軽い世間話ではない。

 重要な話がしたかったからだ。


「そうでしたか……しかし、木から落ちでもしたら大変です。殿も心配なさいますゆえ。

 お話がある時はどうぞ遠慮なさらずお声がけください。折を見て時間を作りますので」


「分かったわ。次からはそうするわね」


 諸葛亮はしばし、待ってくださいというような仕草をした。

 小首を傾げる孫黎を残し、執務室に入るとすぐに戻ってくる。

 彼は自分が羽織る上着を持って来て、孫黎そんれいの肩に掛けた。


「もう寒い時期になりましたから。私のもので申し訳ありませんが」


 碧の瞳を瞬かせてから、孫黎は首を振った。

「ありがとう。諸葛亮さん」

「どうぞ孔明こうめいとお呼びください。奥方さま」

「分かったわ。でも貴方も奥方様はやめて、孫黎って呼んで」

「……かしこまりました。孫黎殿」


「あのね……孔明さん。ここだけの話にしてくださる? 勿論、貴方と話したあとに玄徳げんとく様にはお話しするわ。でも……その前に貴方に話しておきたいの。

 これから私が話すことを聞いて、貴方が思うことがあったら正直に言って欲しいのよ。

 貴方は玄徳様の相談役だもの。信頼出来るから」


「お話の内容にもよりますが、ご信頼を裏切らない努力はいたします」


 諸葛亮しょかつりょうは丁寧に答えたが、孫黎そんれいには壁を作られているように感じられた。

 しかし劉備りゅうびが前に、教えてくれたことがある。

 諸葛亮はここに来る前はどこにも仕官しておらず、城仕えもしたことがないため、本当はもっと砕けて人と付き合うのが好きではあるのだが、公の場で自分が失礼を働くと劉備にまで迷惑を掛ける立場に彼がなったため、敢えて慎重に、注意深く丁寧な人間を演じているのだと。


『じゃあ、前はどういう生活をなさっていたの?』

『田畑をやりながら、自分だけの庵でゴロゴロしていたそうだよ』


 ゴロゴロ……と聞いて、孫黎は吹き出してしまった。

 彼女は劉備の軍師として何もかも完璧に、冷静にこなす諸葛亮しか見たことがなかったからだ。

 生真面目で勤勉な諸葛亮がかつては家でゴロゴロしていたなんて、信じられない。


 しかし建業けんぎょうの城で、何もかも完璧に振る舞っていた周公瑾しゅうこうきんが、孫策そんさくといる時は庭先に転がって笑っていた姿を見ていたから、彼もそうなのかなと思った。


 本当に安心出来る場所や、人の側では寛ぐのかもしれない。


「……申し訳ありません。折角孫黎そんれい殿が私を信頼し、話しに来て下さったのにこれでは話もしにくいですね」


 孫黎は何も思わなかったのだが、諸葛亮が少し黙った彼女を見て、勝手にそんな風に言った。  

 彼女は優しく笑う。


「いいのよ。全然気にしてない。

 難しく考えないで、話を聞いてくれればいい」


「はい。そのように致します」


 孫黎は少しだけ間を置いた。

 彼女の唇から、白い息が零れる。


「……私ね……ずっと考えてたの。

白帝城はくていじょう】に行った時、自分はの人質として殺されるんだと思った。

 その時に、考えていたのは……一番恨みに思ったのは、周瑜しゅうゆだった。

 さく兄様は、確かに父様が死んじゃった後、呉の全てを背負って……私やけん兄様が何もかも背負わないでいいように、戦って来てくれた。

 手を汚すこともあった。

 でもそうさせてるのは周瑜だって、私は知っていた。

 私がしょくに送り込まれたのも、もし策兄様が思いついたことなら、策兄様は自分で私の所に来て、呉の為に死んでくれと言ったはずよ。

 そういう人だったから。

 言わないのは周瑜が考えたことだから。

 策兄様は周瑜の考えたことは、全部自分も一緒に背負い込もうとする」


「……ですがそれは、周瑜将軍も同じように思います」


「そうね。それは……貴方の言う通り。

 結局私は、幼い頃から側にいた周瑜の事、何も分かってなかったんだと思うわ。

 趙雲ちょううん将軍から、策兄様と周瑜が赤壁せきへきで死んだと聞いた時、初めてあの人がどういう人だったのか、答えを知った気がした。

 本当の周瑜に初めて会えたような。

 それが分かってから、恨みが消えていったわ」


 諸葛亮しょかつりょうは劉備に軍政も民政も一任されているが、ただ一つ、劉備自身の希望でそうして欲しいと託されていることがあった。


黎姫れいひめがもし呉への帰還を望んだら、その通りにしてやって欲しい』


 彼の言葉を裏付けるように、孫黎と劉備は仲睦まじく、よく夜の寝室も共にしているのに未だに孫黎の懐妊の報せはなかった。

 

 ……劉備りゅうびが避けているのだと思う。


 孫黎が今、劉備と縁づけば、彼女は呉に戻ることは決して出来なくなる。

 しかしその事実とは関わりなく蜀に孫黎が留まっても、もはや政の駒としては機能しなかった。

 呉の為でもなく、

 蜀の為にもならない。

 このまま成都に留まれば、孫黎は誰の手も取れないまま、関心も持たれることがないまま、人生を終えていかなければならない。孫黎はまだ二十代の若い娘なのだ。

 劉備はそれが哀れなのだろう。


『今なら戻れる』


 だから彼女が望んだならそうしてやって欲しいと、それだけは頼まれた。


「わたし……小さい頃から家族のみんなに守られて、大したことを何にも考えて生きてこなかったわ。誰かが必ず守ってくれたから。

 でもこれだけは、あの日から、

 ……策兄様と周瑜が亡くなったって聞いた日からずっと考えて来たわ。

 多分これ以上考えても答えは変わらないと思う所まで考えたから、貴方に打ち明ける」


 諸葛亮に、孫黎そんれいは向き直った。


「――私、玄徳げんとく様の側にいたいの。

 自分が死ぬその時まで。

 呉には戻らないし、戻らなくていい。

 蜀にいたいと思ってる。

 ここで暮らしたい」


 言った瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れた。

 しかし表情に苦悩や後悔は見られなかった。感情の涙だろう。

 大きなことを、自分で口にした為気持ちが昂ぶったのだ。


「ごめんなさい。でも、嘘じゃない。無理してもないわ。

 私の、本当の気持ち」


 諸葛亮しょかつりょうは頷いた。


「大丈夫。分かっています」

「うん……」

 本当は泣きたくなかったけど。彼女が小さく呟いた。


「故郷や、兄上たちは良いのですか。母上もご健在だと聞いていますが」


 敢えて、尋ねた。


「会いたいと言わなかったらそれは、嘘になるけど。

 でも私がに戻ったら二度と蜀には戻れないわ。それくらい分かってる。

 家族との再会の喜びを、何度も考えたけど……蜀に残してくる玄徳げんとく様に二度と会えなくなる寂しさを考えたら、私はそっちの方がずっと辛かった。

 いつか建業けんぎょうで、玄徳様が戦で亡くなったなんて報せを聞くのは、耐えられない。

 その時の気持ちは分かるの。

 さく兄様と周瑜しゅうゆが死んだと聞いた時……本当に辛くて仕方なかった。


 私は、呉では幸せに暮らしたわ。大切にしてもらった。

 でもいいの。

 もう十分幸せだから。

 今度は、……これからは私は、私が大切にされるんじゃなくて、私が誰かを大切にして、幸せにしてあげたいの」


 百計を編む諸葛亮しょかつりょうにも、女の考えだけは分からなかった。

 彼女達とはものの考え方や捉え方が違うからだ。


 孫黎そんれいには、政としての利用価値はもはやない。

 呉軍を統括する魯子敬ろしけいは孫家の兄妹の情に流されてくれるほど、甘い男ではない。

 だとしたら、全ては孫黎の意志で決めていい。

 問題なかった。


「孫黎殿」


 びく、と僅かに彼女の身体が強張った。

 孫黎からは、家族の愛を一身に受けて育ってきた人間ならではの、大らかさや明るさを感じた。

 孫家の姫だが、傲慢ではないのだ。

 それは、彼女が国に尽くす兄達を、きちんと別の角度から見守って来たからだと諸葛亮は思う。


 同族の劉璋りゅうしょうを攻めて、成都せいとに入った。

 

 無論そのことで、様々なことは言われている。

 徳の将軍の化けの皮が剥がれたと。

 諸葛亮はそうは思わなかった。

 劉備は聖人ではないのだ。

 でも正しい道を常に模索して、生きたいと願っている。

 そう出来ないこともある。ただ、それだけだ。

 入蜀を果たしても、劉備は今までと違う道を歩み始めたわけではない。

 一度手を汚したのだから、これからはそういう生き方に身をやつそうというわけでもなく。


 殺めた命のことは、ずっと考え続けて行くのだろうと思う。

 だからこそ諸葛亮はこれから先も優れた人材を見つけ、招き、劉備の側に置かねばならないと考えている。


 優れた人材も、友も、それはその人の財産だ。

 苦しい時にそれがその人を守る。支えてくれる。

 失われていくだけでは、どこかで劉備は耐えきれなくなる。

 これから先も、劉備を支えられる人材は、大切にし、迎えるべきだ。


 作物を植えるのだ。大切に絆を育てる。

 それが人間の、人生の春になる。

 劉備を冬の景色の中に、一人にさせたくなかった。


 孫黎そんれいは劉備を慕ってくれている。

 正直なところ、諸葛亮は次に孫黎が自分か、劉備に何かを打ち明けてくる時は『に戻りたい』と言うと思っていた。

 しかしそれは、厳密に言うと郷愁を覚えたという理由ではなく、自分がここにいることで劉備の負担になり、思い通りの政が出来なくなってはいけないという、愛のためではないかと考えていたのだ。


 彼女は孫呉の姫だ。

 孫呉に戻ることが一番自然だったから。


 だから彼女が「蜀に残りたい」と言ったのは、諸葛亮には意外な答えだった。

 予想は外れたが――、


 ……だが、そんなことは別に構わないと思う。


孫黎そんれい殿。

 貴方の考えを、どうぞ劉備殿にお伝え下さい。

 今語られた、同じそのままのことを」


 孫黎が驚いた表情をする。


「でも……」

「はい」

「……いいの?」

 諸葛亮は静かに頷く。


「私にその判断はつきません。しかし政に関しては、構わないと思います。

 呉はすでに蜀との同盟を破棄しています。

 貴方の縁に頼って何かを成そうとは、もうしないでしょう。

 私が頷けない理由は、貴方が蜀に残ってからの幸福を、保証して差し上げることが出来ないからです。

 呉には貴方の家族がいらっしゃる。戻れば生涯大切にされるでしょう。

 ですが貴方は、いつか蜀に残ったことを後悔するかも」


 一瞬、涙を零していた孫黎の目に、炎のような煌めきが宿った。

 

 怒りだ。

 女の心の曖昧さを指摘されて、怒ったのだ。

 

 彼女の父の孫堅そんけんも、兄の孫策そんさくも、非常に強い魂を持った男だったが、

 その片鱗を、孫黎の中にも確かに見た。


 この誇り高さと心の強さがあれば、

 きっと自らの人生を嘆き、故郷を想って泣くばかりの姫にはならないだろう。



「この時代、みんな、幸せな未来なんて約束されてない。

 私だけ誰かに約束して欲しいなんて、私は思わない。

 私は【江東こうとうの虎】と呼ばれた孫文台そんぶんだいの娘。

 そして【小覇王しょうはおう】と謳われた孫伯符そんはくふの妹よ。

 誰かの手など借りず、

 自分の幸せは自分で決める」



 諸葛亮は頷いた。


「そういう方に、私は劉備殿の側にいていただきたいのです」


 声を一瞬荒げた孫黎そんれいは目を瞬かせた。

 それから俯くと、また涙が流れる。


「私をわざと怒らせたのね。

 ……貴方って近寄り難い、扱いにくい人だと思ってたけど、思ってた通り。困るわ」


「孫黎殿。一つだけよろしいですか」


 諸葛亮は彼女に歩み寄った。


「……情を。

 無理に断ち切る必要はないのです。

 忘れなくてもいい。

 故郷や、貴方を慈しんだ人々との記憶は、貴方という人間を作り上げた一部です。

 大切だと思うなら、生涯大切にして下さい。

 何もかもいらないと捨ててしまっては、貴方という人間が消えて行ってしまう。

 優しさや、素晴らしさもです。


 例え口に出さなくても、心の奥にいつまでも大切になさって下さい。

 辛いことではあるでしょうが貴方ならきっと忘れずにいても、笑って生きていける。


 劉備りゅうび殿を支えたいと仰って下さったこと、臣下として、深く感謝致します」


 諸葛亮しょかつりょうは深く一礼すると、静かに庭を後にした。






 孫黎そんれいはゆっくりと、力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。


 手が土に触れる。


 しょくの大地。

 生まれ育った呉とは、違う場所。


 蜀と呉はこの先また、戦うことになるだろう。



(それでも、絶対に後悔しない)



 ここで劉備と共に生きて、

 彼を支える。

 彼の大切だと思うものを、自分も大切に思って生きていく。


(何があっても決めたの)


 強く想ったが、

 情を無理に捨てることはないのだと言ってくれた諸葛亮の言葉に、少しだけ心を救われた。

 諸葛亮がそう言ったということは、

 劉備もきっと、そう思ってくれるだろうから。



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