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 八月が過ぎ、九月一日になれば学校が始まる。その間に栞菜の胸に溜まっていた落ち込みはいくらか解消されていた。

『Do your best!』

 スマートフォンの画面にデイジーのメッセージが表示され、それを見て微笑み、青城高校の制服に袖を通した。白シャツの左胸にエンブレムがあり、スカートは青と水色のラインが入っている。リボンは任意らしいが、女子高生らしくするため付けることにした。アメリカの学校でもよくしていたように、前髪をポンパドールにして額を出しておく。髪の毛は結んでも結ばなくてもいいらしいので、ひとまず流した。

 それから朝ごはんもそこそこに玄関へ向かう。

「いってらっしゃい!」

 母に見送られ、栞菜は元気よくピースサインして家を出た。

「いってきます!」

 鉄扉を開けて、一軒家が立ち並ぶ住宅地の道路へ飛び出す。夏の日差しを浴びながら、栞菜は学校へ向かった。


 九月の朝も八月をそのままトレースした暑さで、栞菜は歩きながら髪の毛を一つ結びにした。夏休み中に何度もシミュレーションした通り、学校を目指す。

 この町は駅を中心に大きなビルや学校、病院などの公共施設が立ち並ぶ。大都会とまではいかないが寂れてもいない。町に難関校の公立高校や私立高校があるからか、駅前はいくつかの学習塾がビルテナントに入っている。それに伴い、ファストフード店やコンビニエンスストアが充実していた。

 栞菜はアメリカへ引っ越す前は、この地域に住んでいた。近くにある地元小学校は小学五年の夏まで在籍していたので、目に入るたびに懐かしくなる。なんだか意識だけタイムスリップしたような感覚になるが、停車中の車に高校の制服姿が映ると慌ててその場を離れた。

 県立青城高校は、大通りに面した道路から小道を進むと現れるガラス張りの建物で、小学校とはまったく違う洗練されたデザインだ。

 生徒たちの「おはよう」の声が飛び交う校門で、栞菜は胸を弾ませる。

 門をくぐった先も清潔な道路が続き、生徒たちが吸い込まれるようにして昇降口へ向かうが、栞菜は外部用の玄関から入った。目の前にある職員室を訪ねる。中も外見と同じくきれいな内装で、編入試験から面談で何度か通ったので慣れたものだ。

 建物の中は全体的に冷房が効いており、熱で蒸れた体を冷やしてくれる。

「失礼します。八柳栞菜です。あの……」

 職員室に入ると数名の教師たちの物珍しそうな視線を受けた。近くにいた中年の女性教師が立ち上がり、柔和に対応する。

「あぁ、二年の帰国子女ですね。村主すぐり先生ー!」

 声を張り上げる教師の陰からそっと覗くと、灰色のベストとシャツ姿の男性教師が小走りでやってきた。

「あぁ、はいはい。帰国子女の、えーっと」

「八柳栞菜です」

 少し身構えながら名乗る。枯れ木を思わせる痩せた体躯の男性教師は薄笑いを浮かべた。

「そう、八柳さん。僕は君の担任の村主です」

「よろしくお願いします」

 村主はメガネのズレを直し、眠たそうな目で栞菜を見下ろす。顎の下にひげの剃り残しがあり、そのところどころが白かった。

「そうだなぁ、まだ時間があるし……隣の進路相談室で待っててもらえる?」

 村主はそう言いながら部屋の内側に設置された鍵置き場から一本のディンプルキーを掴むと、栞菜の脇をすり抜けて職員室を出た。隣の進路相談室を解錠し、ドアを開けてくれる。

「じゃあ、俺が呼ぶまで待機で。それじゃ」

 そう言って村主はピシャリとドアを閉める。少し圧迫感のある部屋で一人取り残された。

 室内を見回す。テーブルとソファ。四人が向かい合うようにして座れるよう置かれ、脇には腰までの棚と大きな古い本棚があった。本棚には進路についての本が数冊並んでおり、ファイルもいくつか差してある。

 壁の掲示板には新聞の切り抜きがいくつか貼られていた。野球部甲子園出場、男子バスケットボール部インターハイ出場決定、卒業生の活躍が載った記事など。スポーツに力を入れているのかと思いきや年代がバラけている。最近なら高校生インフルエンサーのインタビュー記事、在校生のアプリ開発、地域ボランティア運動の特集があった。

「茉莉の自殺についてはない、か」

 つぶやきながら当然ないと気づく。茉莉の自殺は学校にとってマイナスな事件でしかない。

「八柳さん」

 唐突に声がかかる。音もなくドアを開けてこちらを見る村主は無表情で思考が読めない。ちょうどチャイムが鳴り、教室へ行く時間だと悟る。

「教室は三階。君のクラスは二年三組」

「はーい」

「始業式の前に君を紹介するので、今のうちに自己紹介考えてて」

 淡々と前を歩く村主の声音は職員室にいるときよりも空気が緩い。栞菜はその隙間に滑り込むように明るく話しかけた。

「先生。ねぇ、先生っていくつ? 四十歳いってる?」

「……えー」

 村主はわずかに唸り、考えるような間が空くが答えてくれない。しかし、栞菜は諦めなかった。

「じゃあ先生は、なんの教科?」

「英語」

「えっ、英語!? じゃあ、先生には英語でしゃべってもいい?」

 急激に親近感を覚え、つい調子づいて階段を駆け上がるも、村主は追い越されまいと先を行きながら「ここは日本だから」と、そっけなく返した。


「えー、今日からこのクラスに入る八柳栞菜さん、です。はい、じゃあ自己紹介」

 村主は教壇に立つと、黒板に栞菜の名前を書いた。

「八柳栞菜です。アメリカのシアトルから帰ってきました」

 ぎこちなく笑い、クラスメイトたちを見回す。即座に真ん中に座っていた男子がからかった。

「先生となんか英語でしゃべってみてよ!」

 栞菜は困り、ちらっと村主を見るも彼は出席簿を見ている。

「ここは日本だから無理って、さっき言われたんだけど」

 仕方なく本当のことを言うと、教室内は一気にざわめいた。

「ノリ悪いな、すぐりん」そんな声が聞こえてきたと同時に、村主は出席簿を思い切り音を立てて閉じた。教室内が静かになる。

「はい、じゃあ八柳さん、空いた席に。あぁ、その窓際じゃなくて廊下側のそっち」

 すぐさま席を指定され、栞菜はそそくさと席に座る。せっかく考えた自己紹介の半分もできなかった。

 それから村主は黒板の横にある液晶モニターを起動させた。やがて校長の顔が映り、始業式が始まる。

『夏休み前に起きた悲しい事件については、皆さんも心を痛めていると思いますが──』

 そんな言葉がつらつら流れていく間、栞菜は葬儀の際に会った男子を探したが、いなかった。


 休み時間、前の席に座る女子が振り返ってきた。毛先を外ハネにした彼女は、素朴な顔立ちで不安そうな目をしている。栞菜が顔を上げたことで、目が合うと慌てて前を向いてしまった。

「え、えっとー、ねぇ? よろしくね?」

 愛想よく声をかけてみると、彼女は辺りを見回してまたもやチラッとこちらを振り向く。すると彼女は「うん、よろしく」と小さく答えた。

「わたし、高塔たかとう安寿あんず、です」

「へぇぇ。安寿ね。よろしく! 私のことは栞菜って呼んで」

 安寿は髪の毛先をいじり、えへへと笑う。すると、近くにいた女子たちが栞菜の前にやってきた。

「八柳さん、アメリカから引っ越してきたの、大変だったでしょー。あ、私は岩本いわもとかえで。こっちは田辺たなべ百合乃ゆりの。よろしくー」

 鼻筋がすっと通った美人が岩本。小柄で丸顔、メイクをしっかりしたほうが田辺らしい。

 それから根掘り葉掘り訊かれる。小五まで近所に住んでいたが、父の転勤でアメリカへ引っ越したこと、そのため日本語が少々苦手だということ、今年の七月にこっちへ戻ってきたこと。

 二人は息ぴったりに相槌を打ち、気さくで話しやすい。

「てか、さっきの自己紹介のとき、村主ひどくない? ノリ悪すぎでテンション下がるじゃん」

「それなぁ」

 岩本が話せば田辺が返す。彼女たちの空気には、教師を容易に茶化す軽い空気があった。

「先生のこと、そんなふうに言うのよくないんじゃない?」

 栞菜は何気なく言った。そのとき、岩本と田辺の笑顔がピタリと止まる。

「あーね……あはは、ごめんねぇ」

 岩本が取り繕うように笑と、二人は顔を見合わせて「じゃ、またねー」と言って廊下に出た。栞菜は二人の後ろを見たが追いかけはせず、ため息をつく。

 授業までの時間が長く感じられ、仕方なく安寿の椅子をつついた。

「ねぇ、安寿。お話しよ!」

 すると安寿は助けを求めるように周囲を見たが、すぐに諦め、ぎこちなく振り返った。

「な、何を?」

「何をって、安寿は私に訊きたいこととかない?」

「えー……っと」

 安寿は蚊の鳴くような声で迷い、首をかしげた。あまり人と話したがらない子なのだろう。大人しくて臆病そうだ。ふと栞菜は茉莉を思い出す。

 ──茉莉も大人しかったけど、こうじゃなかったな。

「ねぇ、あのさ、安寿って茉莉のこと知ってる?」

 ふと訊くと安寿は目を見開いて驚いた。

「しっ、知ってるの?」

「うん……茉莉は、私の友達だったから」

 葬儀にも行ったんだよね。そんなことを言うも、安寿は聞いてるのか聞いてないのか放心状態になっている。

 目の前で手を振ると彼女はハッとした。それがどうにも芝居がかって見えた。

「あ、ごめんね」

 安寿は前を向き、そう話を切り上げてしまう。逃したくない栞菜は手を伸ばして声をかけるも、チャイムが鳴ったので諦めた。

 ほどなくして村主がプリントの束を持って来て、気だるそうに教壇へ立った。それまで自由に動いていた生徒たちが慌てて席につく。

「はーい、席つけー。テスト配るぞ」

「えっ!? 先生、テストなんて聞いてないよ!」

 栞菜は思わず抗議の声を上げたが、クラスメイトたちは平然とした様子。

 村主も「言ってなかったかな」とぶつぶつ言うだけで、栞菜の驚愕に共感する人は誰もいなかった。

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