第5話 最後の希望
11月18日、五度目の朝。
僕は、激しい頭痛と、嵐の海のように鳴り止まない耳鳴りの中で、悪夢の底から引きずり出されるように目を覚ました。前回のループの最後に、僕の鼓膜を蹂躙した、あの無数の声のノイズ。栞の拒絶、風間の断罪、クラスメイトたちの嘲笑。それらが、まだ頭蓋骨の内側に反響し、僕の思考をぐちゃぐちゃにかき乱している。
ベッドから起き上がろうとした瞬間、世界が、まるで大地震にでも見舞われたかのように、ぐらりと大きく揺れた。立っていられず、僕は再びベッドに崩れ落ちる。ループの代償は、僕の精神を、もはや回復不可能なレベルまで削り取っていた。
「またか……」
もはや、ループという現象そのものに対する驚きは、僕の中にはなかった。あるのは、決して終わることのないこの悪夢に対する、底なしの疲労感。そして、僕の完璧な計画を邪魔した風間や、僕の真意を理解しようともしなかった栞に対する、どす黒い、焼け付くような怒りだけだった。
「なぜ、僕がこんな目に遭わなければならないんだ……」
僕の思考は、完全に、そして決定的に、被害者意識に染まりきっていた。
僕が、正しい。
僕が、ヒーローだ。
間違っているのは、僕の正義を理解しない、この愚かな世界の全てだ。
僕は、ふらつく足で洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔を見て、思わず息を呑む。そこにいたのは、まるで生気を吸い取られた亡霊だった。
その時、僕は見てしまった。
部屋の壁にかけてある、何の変哲もないカレンダー。その、『18』という赤い数字が、まるで生々しい血で書かれたかのように、じわりと滲み、壁紙に滴り落ちていくのを。
壁の木目が、もぞもぞと蠢き、苦悶に満ちた無数の人間の顔のように、次々と浮かび上がっては消えていく。
僕は、もはや、幻覚と現実の区別が、ほとんどつかなくなっていた。
家を出ると、外の空気が、昨日までとはまるで違う、異様な緊張感を帯びていることに気づいた。近所の主婦たちが、道端でひそひそと囁き合っている。僕の横を通り過ぎる小学生が、僕の顔を見て、母親の後ろにさっと隠れた。
学校に近づくにつれて、その異様さは、さらに増していく。
校門の前。
そこには、前回の一台どころではない。パトカーが数台、そして、威圧的な黒塗りの捜査車両がずらりと並び、ものものしい雰囲気を醸し出していた。
制服警官だけでなく、鋭い目つきをした私服刑事と思しき男たちが、校門の内外を、まるで獲物を探す鷹のように、厳しく監視している。登校してくる生徒一人ひとりの顔を、値踏みするように、じろじろと見ている。
この光景に、一般の生徒たちは完全に怯えきっていた。誰もが俯き、足早に校舎へと吸い込まれていく。
しかし、僕の目には、その光景は全く違って映っていた。
「そうだ、それでいい。もっとやれ」
僕は、この厳戒態勢を、僕の三度目の「正義の告発」が、ついに警察を本気にさせた結果だと、どこまでも歪んで解釈した。
これだけの、厳重な包囲網を敷けば、あの獣(風間)も、今日こそは迂闊には動けないだろう。
今日こそ、あいつの息の根を、完全に止めてやる。
僕の狂気は、もはや誰にも止められない領域へと、足を踏み入れていた。
◇
教室のドアを開けた瞬間、僕は、空気が完全に凍りついているのを感じた。
僕が入ってきた途端、教室のあちこちで交わされていた囁き声が、ぴたりと止む。クラスメイトたちの視線が、一斉に僕へと突き刺さった。その視線には、好奇と、そして、得体の知れないものを見るかのような、明確な恐怖の色が混じっていた。
特に、風間の取り巻き連中は、あからさまな、殺意にも似た敵意を、僕に向けている。彼らは、僕が風間を陥れた張本人だと、確信しているのだろう。
もはや、僕に話しかけてくる者は、誰もいなかった。
僕は、完全に「ヤバい奴」として、腫れ物のように扱われていた。
僕は、その突き刺さるような孤独を、「ヒーローの宿命だ。大衆は、いつだって真実を理解できないものだ」と、悲劇の主人公になったかのように自己正当化しようとした。だが、背中に突き刺さる無数の視線は、僕の心を、じりじりと、確実に蝕んでいった。
一限目の授業が、始まってすぐのことだった。
教室のドアが、静かに開いた。入ってきたのは、担任の教師と、そして、校門前で見かけた、あの鋭い目つきの私服刑事二人組だった。一人は、年季の入ったベテラン風の中年刑事。もう一人は、まだ若く、真面目そうな青年刑事だ。
教室の空気が、再び緊張で張り詰める。
中年刑事が、低い、よく通る声で言った。
「桜井湊くん、だね。少し、お話を聞かせてもらえるかな」
その声が、僕の名前を呼んだ瞬間、教室中の視線が、まるで一本の巨大な槍のように、僕の身体を貫いた。
僕は、顔を引きつらせながらも、無言で席を立った。
連れて行かれたのは、三階の、普段はほとんど使われていない、進路相談室だった。
窓にはブラインドが下ろされ、外の光が遮断された、密室。逃げ場は、どこにもない。
僕と、二人の刑事が、小さなテーブルを挟んで向かい合う。
尋問は、若手の刑事から、穏やかな口調で始まった。
「桜井くん、君が昨日、匿名で警察に通報してくれたんだよね? 勇気のある行動に、まずは感謝するよ。ありがとう。それで、風間くんが、一条さんを脅迫しているのを見た、ということで間違いないかな? 具体的に、どういう状況だったのか、教えてくれる?」
僕は、あらかじめ頭の中で何度もシミュレーションした通りに、淀みなく答えた。
「はい。昨日、偶然、サッカー部の部室で、風間くんがロッカーに手紙のようなものを隠しているのを見ました。その時の彼の様子が、何というか、とても鬼気迫るものだったので……」
「なるほどね」
穏やかに頷いていた若手刑事の言葉を、隣の中年刑事が、鋭く遮った。
「ほう。脅迫状、ね。桜井くん、君は、その脅迫状の中身を、読んだのかい?」
その、全てを見透かすような、鋭い眼光に、僕の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「い、いえ、そこまでは……。ただ、雰囲気で、何か良くないものだ、と……」
「そうかい。だが、不思議だねえ」
中年刑事は、僕の目を、じっと睨みつけながら続けた。
「君は、通報の時に、はっきりと言ったはずだ。『今日の放課後、旧視聴覚室に来い』という内容だった、とね。読んでもいないのに、なぜ、そんな具体的な内容まで知っていたんだい? まるで、君がそれを書いたみたいじゃないか」
「そ、それは……!」
僕は、全身から、さっと血の気が引くのを感じた。
「それは、他の生徒たちの、噂で……! そうです、噂で聞きました!」
「噂、ね」
刑事は、鼻で笑った。僕のしどろもどろな嘘は、百戦錬磨の彼らには、赤子の戯言のようにしか聞こえていないだろう。
刑事の疑いの目が、僕の心の奥底まで、容赦なく貫いてくる。
「君、一条さんとは、どういう関係なんだい? 最近、何かトラブルはなかったかな? 例えば、そうだな……彼女の、私的な物を、勝手に持ち出したりとかね」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭は、完全に真っ白になった。
知られている。
便箋と、封筒のこと。
栞先輩が、警察に話したんだ。僕が、彼女の物を盗んだかもしれない、と。
包囲網は、僕が犯人だと定めた風間蓮ではなく、この僕自身に、狭められていたのだ。
その、あまりにも残酷な事実に、僕は、ようやく気づいた。
気づいてしまった。
僕の全身が、カタカタと、恐怖に震え始めた。
◇
事情聴取は、その後も一時間近く続いた。
僕が、憔悴しきって、幽鬼のような足取りで進路相談室を出ると、廊下の壁に、腕を組んで寄りかかっている人影があった。
風間蓮だった。
彼の顔には、もう、昨日までのような激しい怒りの色はなかった。そこにあるのは、ゴミムシでも見るかのような、冷え冷えとした、侮蔑の色だけだった。
「よお、ヒーロー」
彼は、僕を嘲笑うかのように、そう言った。
「警察に、うまく言い訳はできたか?」
「…………」
僕は、何も言い返すことができなかった。
「お前がやったこと、もう全部、バレてんだよ。警察も、もうお前が一番怪しいってことに、とっくに気づいてる。俺への疑いは、お前のおかげで、一応は晴れたからな。その点だけは、まあ、感謝してやってもいいぜ」
彼は、心底から楽しそうに、そう言ってのけた。
「ご愁傷様。まあ、俺はせいぜい、お前がいつ警察にしょっぴかれるのか、高みの見物とさせてもらうぜ」
風間は、そう吐き捨てると、僕の横を、まるで道端の石ころでも避けるかのように、通り過ぎていった。
彼のその瞳は、もはや、僕を同じ人間として見ていないかのように、冷え切っていた。
僕は、完全に孤立した。
教室に戻っても、僕の周りだけ、ぽっかりと空間が空いている。誰も、僕の近くに寄ろうとしない。
昼休み。僕は、誰とも口をきけず、教室の隅で、ただ、固まっていた。
その、僕の前に、一人の人物が現れた。
長谷部梓だった。
しかし、彼女の顔には、いつものような、面白いゴシップを見つけた時の、好奇の輝きはなかった。そこにあるのは、憐れみと、そして、ほんの少しの恐怖の色だった。
「……ねえ、桜井」
彼女は、静かな声で言った。
「あんた、もう、やめときなよ」
「……何がだ」
僕は、か細い声で、そう返すのが精一杯だった。
「全部だよ。風間のことも、警察のことも……。あんた、正直、見ててヤバいよ。もう、この学校の誰も、あんたのこと、信じちゃいない。」
彼女の言葉が、僕の胸を抉る。
「私、ゴシップは好きだけどさ。人が、本気で壊れてくのを見るのは、趣味じゃないんだよね」
長谷部は、そう言うと、一枚の小さなメモを、僕の机の上に、そっと置いた。
「これ、あんたへの、最後の情報提供。お代は、要らないから」
彼女は、そう言い残すと、僕に背を向けて、去っていった。
僕は、震える手で、そのメモを拾い上げた。
そこには、彼女の、少し癖のある文字で、こう書かれていた。
【新設・監視カメラ】
管理室のパスワード、まだ初期設定のままらしいよ。
パスは、『password』。
……これで、何とかしな
◇
長谷部が去った後、僕は、その小さなメモを、まるで最後の命綱であるかのように、強く、強く握りしめた。
監視カメラ。
そうだ。あれがあったじゃないか。
最近、校内の防犯強化のために、主要な場所に、何台もの監視カメラが新設されたのだ。
旧視聴覚室のある、あの旧校舎の廊下にも、確か、設置されていたはずだ。
「これだ……! これしかない!」
絶望のどん底にいた僕の心に、再び、狂気的な希望の光が差し込んだ。
僕が、どれだけ警察に疑われようと、どれだけ皆から孤立しようと、関係ない。
客観的な、動かぬ物的な証拠があれば、この状況は、一発で覆せる!
監視カメラには、必ず、真実が映っているはずだ!
僕が、風間に襲われた、あの瞬間の映像が!
あるいは、風間が、こそこそと、旧視聴覚室に向かう姿が!
僕の無実も、あいつの罪も、全て、あのカメラが、完璧に証明してくれる!
僕は、完全に、自分にとって都合のいい映像が、そこに記録されていると、信じ込んでいた。
これが、僕を救う、最後の切り札。
これが、僕の、逆転の一手だ。
僕は、震える足で、椅子から立ち上がった。
目的地は、一つしかない。
コンピューター室だ。
そこからなら、校内ネットワークにアクセスし、監視カメラの映像データを見ることができるはずだ。長谷部が教えてくれた、パスワードを使って。
僕は、自分が今から開けようとしているものが、希望の箱などではなく、決して開けてはならない、真実という名の絶望が、ぎっしりと詰まった、パンドラの箱であることに、まだ気づいてはいなかった。
僕の、狂気に満ちた、希望に燃える表情と、その背後に、刻一刻と迫り来る、取り返しのつかない結末の、巨大な影。
その、あまりにも歪なコントラストの中で、物語は、ついに、最終局面へと、向かおうとしていた。
◇
放課後。
生徒たちが、一日の授業から解放された喧騒と共に、昇降口へと流れていく。その、人の流れに逆らうようにして、僕は一人、校舎の奥深くへと足を進めていた。
僕の足取りは、狩人に追われ、追い詰められた獣のようであり、同時に、最後の奇跡にすがる、巡礼者のようでもあった。
廊下ですれ違う、数少ない生徒たちの視線が、まるで無数の氷の刃のように、僕の背中に突き刺さる。囁き声が、僕の耳をかすめる。「あいつだ」「ヤバいよね」「関わらない方がいいって」。
僕は、その全てを無視した。
見てろよ。
お前たちが、どれほど愚かで、間違っていたのかを、僕がすぐに、証明してやる。
僕を疑い、僕を孤立させた、この世界の全てへの復讐心だけが、今や僕を動かす唯一の燃料だった。
栞先輩も、きっと分かってくれるはずだ。僕が、彼女を救おうとした、たった一人の、本当のヒーローだったのだということを。
僕の思考は、もはや「彼女の救済」という当初の目的から、完全に逸脱していた。僕の頭を支配しているのは、ただ、僕自身の潔白を「証明」し、僕を陥れた者たちへ「復讐」するという、どこまでも自己中心的な、黒い欲望だけだった。
目的地は、三階のコンピューター室。
放課後は、もちろん施錠されている。だが、今の僕にとって、そんなものは障害にすらならない。
僕は、周囲に人影がないことを確認すると、ポケットから取り出した一本のヘアピンを、古いタイプの鍵穴に、手慣れた様子で差し込んだ。美術準備室の鍵を、そして、風間のロッカーの錠を開けた、あの時と同じ要領だ。
カチリ、という小さな音を立て、ドアは、いともたやすく開いた。この、罪を重ねる手際の良さが、僕がもはや「普通」の高校生ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
薄暗い室内に、ずらりと並んだパソコンのモニターが、青白い光を放ち、まるで墓石のように、不気味に佇んでいた。
僕は、部屋の一番奥の、窓から最も遠い席に腰を下ろした。そして、パソコンの電源を入れる。
ウィーン、という起動音が、しんと静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。
僕は、汗で湿った手で握りしめていた、長谷部からのメモを広げた。そして、震える指で、キーボードに、そのパスワードを打ち込んでいく。
『 password』
エンターキーを押す。
ログイン成功。画面に、碧翠学園の、校内施設の管理メニューが表示された。
僕は、その中から、まるで宝の地図に記された目的地を探すように、必死で目的の項目を探した。
「施設予約」「備品管理」「ネットワーク設定」……。
あった。
【セキュリティカメラ・ログ】
僕は、乾いた唇を舌でなめると、その項目を、祈るような気持ちでクリックした。
画面が切り替わり、校内各所に設置された、監視カメラのリストが表示される。
「あった……! やった……!」
僕は、迷わず、そのリストの中から、「旧校舎・1階廊下(東側)」を選択した。間違いない。旧視聴覚室の、真ん前に設置されたカメラだ。
そして、カレンダーから、日付を「11月18日」に指定する。時間は、放課後。僕が、彼女と約束した、あの時間帯に。
全ての準備は、整った。
僕は、再生ボタンにマウスカーソルを合わせたまま、一度、大きく深呼吸をした。心臓が、肋骨を内側から激しく叩いている。
この映像に、全てが記録されている。
僕の無実と、風間の罪。
この映像が、僕を、この終わりのない地獄から救い出してくれる。
僕は、意を決して、クリックした。
しかし。
画面に表示されたのは、僕が待ち望んだ映像ではなかった。
赤いバツ印と共に、無情なメッセージが、ポップアップで表示される。
『指定された日時のファイルは存在しません。削除された可能性があります』
「…………は?」
僕は、画面を、ただ、呆然と見つめた。
削除……?
ファイルが、ない……?
そんな、馬鹿な。
「うそだ……」
僕の口から、掠れた声が漏れた。
次の瞬間、僕の全身を、凄まじい怒りが駆け巡った。
「あいつだッ!!」
僕は、思わず、机を拳で叩いていた。
「風間の奴……! 僕を陥れるために、証拠の映像まで、消しやがった! あの獣……どこまで、卑劣なんだ……!」
僕は、これもまた、全て風間の仕業なのだと、即座に断定した。僕を罠にはめ、警察に売り、そして今度は、僕の無実を証明するはずだった、最後の希望まで、奪い去った。
その、あまりにも用意周到な悪意に、僕は、恐怖よりも、遥かに激しい憎悪を覚えた。
「ふざけるな……!」
僕は、歯を食いしばった。
「これで、終わりになんか、させてたまるか……!」
諦めない。絶対に、諦めるものか。
僕は、パソコンに関する、ありとあらゆる知識を、脳の引き出しから、必死で引っ張り出した。ネットの記事で読んだ、おぼろげな知識。パソコンが得意なクラスメイトから、聞きかじった、断片的な話。
そうだ。削除されたデータは、復元できる可能性がある。
僕は、ブラウザを開き、「データ 復元 フリーソフト」と、震える指で打ち込んだ。そして、検索結果の上位に表示された、怪しげな復元ソフトを、迷わずダウンロードし、実行した。
僕自身にも、これが成功する保証など、どこにもないことは分かっていた。だが、もう、これに賭けるしかなかったのだ。
復元作業が、始まった。
画面に表示されたプログレスバーが、まるで、僕の焦りを見透かしているかのように、亀の歩みよりも遅く、じりじりと進んでいく。
5%……10%……15%……。
僕は、祈るように、画面を睨みつけることしかできなかった。
時間が、止まったかのようだった。
待っている間、僕の精神は、ついに、限界点を超えた。
パソコンの、黒いモニター画面。そこに、ふわりと、血に濡れた栞の顔が浮かび上がった。
その唇が、動き、僕の耳元で囁く。
『どうして……どうして、私を助けてくれなかったの……』
「違う! 僕は、助けようと……!」
僕は、叫んだ。
すると今度は、背後から、風間の、嘲笑う声が聞こえてくる。
『一番怪しいのは、お前だって、言っただろ』
中年刑事の、鋭い声が、頭に響く。
『不思議だねえ、桜井くん』
クラスメイトたちの、ひそひそとした囁き声が、四方八方から、僕を包囲する。
「ヤバいよね」「あいつがやったんだって」「ストーカーらしいよ」。
これまでのループで僕が体験した、全ての恐怖と、屈辱と、絶望が、強烈な幻覚と幻聴となって、僕の五感を、容赦なく蹂躙していく。
「うわあああああああああああああ!!」
僕は、頭を抱え、耳を強く塞いだ。だが、僕の内側から鳴り響くノイズは、決して、鳴り止むことはなかった。
その、狂乱の、真っ只中で。
「ピン」
という、場違いなほど軽やかな電子音が、響いた。
僕は、はっと顔を上げた。
画面には、『ファイルの復元が完了しました』というメッセージが表示されていた。
僕は、狂気に爛々と輝く目で、画面を睨みつけた。
復元されたファイル名は、こうだった。
「cam_log_1118_1530.mp4」
11月18日、午後3時30分からの映像。
見つけた。
僕の、最後の希望。
僕は、震える指で、再生ボタンを、クリックした。
心臓が、今にも張り裂けそうだった。
画面に、見慣れた、旧校舎の廊下が映し出される。西日が、床に長い影を落とし、空気は、どこまでも静まり返っている。
頼む。映っていてくれ。
風間の、罪の証拠が。
数分が、経過した。
その時、画面の奥、階段の方から、二人の人物が、廊下に現れた。
一人は、一条栞。
そして、もう一人は……。
僕、桜井湊、だった。
「…………え?」
僕は、混乱した。
なぜだ? なぜ、風間じゃない?
なぜ、僕が、栞先輩と、一緒にいるんだ?
これは、いつの記憶だ? どのループの、映像なんだ?
映像の中の僕と栞先輩は、何か言葉を交わしながら、旧視聴覚室の、あの重い扉を開け、そして、二人で中へと入っていった。
時間は、さらに経過する。
僕の額から、冷たい汗が、一筋、流れ落ちた。
数分後。
旧視聴覚室のドアが、今度は、内側から、バンッ! と、凄まじい勢いで開かれた。
そして。
そこから、まるで何かに追われるように、飛び出してきたのは。
血の気の引いた、恐怖に顔を、醜く歪ませた、桜井湊――僕、自身だった。
映像の中の僕は、狼狽し、何度も、何度も、恐怖に満ちた目で後ろを振り返りながら、よろめくように、廊下を走り去っていく。
そして、ドアは、開け放たれたまま。
部屋の奥からは、もう、誰一人として、出てくることはなかった。
映像は、その後も、ただ、誰もいなくなった静かな廊下を、無機質に映し続け、やがて、ぷつりと、途切れた。
「…………は?」
声が、出なかった。
呼吸の、仕方も、忘れてしまった。
僕は、画面を、ただ、凝視する。
何度も、何度も、巻き戻して、再生する。
しかし、そこに映し出される光景は、何度見ても、変わることはなかった。
風間は、どこにも映っていない。
刑事も、クラスメイトも、誰も、いない。
そこにいたのは、被害者であるはずの、一条栞と。
そして。
加害者であることを、決定的に、指し示している、僕自身の姿だけだった。
「違う……」
僕は、か細い声で、呟いた。
「違う、違う、違う、違う、違う! こんなのは、嘘だ! 改竄されてる! 風間だ! 風間が、僕を陥れるために、こんな映像を……!」
僕が、必死に、目の前の現実を否定した、まさに、その瞬間だった。
僕の頭を、今まで感じたことのない、まるで斧で頭蓋骨を叩き割られるかのような、激烈な痛みが、襲った。
「ぐっ……あああああああああああああああッ!!!」
鍵のかかった、僕の記憶の、最も奥深くにある、決して開けてはならない扉が、無理やり、こじ開けられる。
忘れていた、最初の記憶。
全ての始まりであった、あの日の光景が、濁流となって、僕の脳内へと、流れ込んできた。
旧視聴覚室の、あの、カビと埃の匂い。
僕の、ねっとりと、欲望に濡れた声が、響く。
『先輩……僕だけの、聖女でいてください……』
困惑と、やがて、憐れみと、ほんの少しの恐怖の色へと変わっていく、栞先輩の、美しい瞳。
そして、彼女が、僕に放った、決定的な、最後の一言。
『ごめんなさい。……桜井くんの、そういうところが、少し、怖い』
その言葉に、僕の世界が、真っ赤に染まった、あの感覚。
裏切られた、という絶望。
僕だけの聖域を、汚されたという、激しい怒り。
僕の理想が、音を立てて崩れ落ちる、あの瞬間。
そして。
気づいた時には、僕のこの手が、彼女の、華奢な肩を、力任せに突き飛ばしていた。
彼女の体が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと、後ろへと倒れていく。
そして、机の角に、後頭部を打ち付ける、ゴツン、という、鈍い、湿った音。
床に、じわりと広がっていく、鮮やかな、赤い染み――。
「ああ……」
「ああ……ああ……」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
コンピューター室に、僕の、人間のものではないかのような、絶叫が、木霊した。
タイムリープなんかじゃ、なかった。
ヒーローなんかじゃ、なかった。
犯人は、風間蓮じゃない。
僕が。
この僕が。
僕自身の、この手で。
僕が、一条栞を、殺したんだ。
全ての記憶が、蘇った。
僕は、ただの「殺人犯」だった。
そして、このループだと思っていた世界は、僕の醜い罪から目を逸らし、犯行を隠蔽し、「なかったこと」にするための、僕自身が作り出した、どこまでも身勝手な、地獄のシミュレーションだったのだ。
僕の世界は、完全に、音を立てて、崩壊した。
モニターの画面には、ただ、僕の罪を告発する、静かな廊下の映像だけが、繰り返し、繰り返し、再生され続けていた。
絶叫。
僕の喉から迸ったそれは、もはや人間の声ではなかった。コンピューター室の硬い床に椅子から転げ落ち、僕は獣のように蹲って、割れそうなほど強く頭を抱えている。目の前のモニターでは、無慈悲な真実の光景が、何度も、何度も、ループ再生されている。
逃げる僕。開け放たれたままの、旧視聴覚室のドア。
違う。
違う。
違う違う違う違う違う違う違う!
僕の心は、まだ、必死にその絶望的な真実を拒絶しようともがいていた。
脳内に、奔流のように流れ込んでくる、あの日の「本当の記憶」。それを、これは風間が仕掛けた罠なのだと、僕の精神を破壊するために植え付けた、偽りの記憶なのだと、最後の抵抗を試みる。
しかし、記憶のディテールがあまりにも鮮明すぎる。
告白の言葉を待つ、栞の、少し困ったような、優しい微笑み。彼女が着ていた、カーディガンの、柔らかな毛糸の質感。旧視聴覚室に立ち込める、カビと埃の、あの独特の匂い。
否定すればするほど、五感に刻みつけられたその記憶が、「本物」なのだと、僕の魂が、絶叫している。
「おえ……っ、げほっ……!」
激しい吐き気が、胃の底から込み上げてきた。僕は、床に両手をつき、胃液を撒き散らす。震えが、止まらない。全身の筋肉が、僕の意思とは無関係に、カタカタと痙攣している。息が、できない。吸っても吸っても、酸素が脳まで届かない。
罪の重圧が、僕の肉体を、内側から、直接的に苛み、破壊していく。
僕がずっと演じ続けてきた、「悲劇のヒーロー」という名の、美しい仮面が、音を立てて砕け散る。
そして、その下から現れたのは、ただの、醜く、卑劣で、哀れな、一人の殺人鬼の素顔だった。
僕の意識は、抗う間もなく、あの日の記憶へと、強制的に引き戻されていく。
それは、ループではない。
たった一度きりの、決してやり直すことのできない、取り返しのつかない、あの日の記憶だ。
11月18日、月曜日。
あの日の朝、僕は、確かに期待に胸を膨らませていた。緊張で、心臓が口から飛び出しそうだった。それは、ループの中で僕が感じていたものと、同じ感覚だった。
だが、その根底に渦巻いていた感情は、全く違っていた。
今の僕には、それがはっきりと分かる。
あれは、純粋な恋心などではなかった。
「彼女を、自分のものにしたい」
「僕だけの、完璧な
そんな、どこまでも歪で、身勝手な、独占欲。
昼休み、僕は、3年生のフロアで、彼女に声をかけた。
『今日の放課後、旧視聴覚室で、待っています』
彼女は、少し驚きながらも、僕の真剣な様子を見て、優しく頷いてくれた。
『わかったわ』
その時の僕は、彼女のその優しさを、「彼女も、僕に気があるからだ」と、あまりにも都合よく、傲慢に解釈していたのだ。本当は、彼女が、ただ、一人の後輩の、必死な想いを、無下にはできなかっただけだというのに。
そして、放課後。
旧視聴覚室へと向かう、僕の足取り。
あの時の、天にも昇るような高揚感。
あれは、「恋」が成就する前の、甘いときめきではなかった。
獲物を、自分の縄張りへと誘い込み、そして、完全に支配下に置く、その一歩手前の、狩人の、悍ましい興奮に近かったことを、僕は、今、この瞬間、痛いほどに理解してしまった。
僕の意識は、旧視聴覚室の、あの重い扉の前で、完全に、あの日の僕自身と同化する。
僕は、これから、僕自身の罪を、僕自身の五感を通して、もう一度、追体験するのだ。
◇
ドアを開けると、カビと埃の匂いが、僕を迎えた。
西日が、窓から差し込み、空気中の無数の塵を、金色に照らし出している。
栞先輩は、少しだけ、緊張した面持ちで、部屋の中央に立っていた。
僕は、彼女が入ってくるのを確認すると、まるで、それが当然の行為であるかのように、背後のドアを閉め、カチャリ、と、内側から鍵をかけた。
二人きりの、密室。僕だけの、聖域。
「え……?」
彼女が、戸惑いの声を上げた。
「念のためです。誰にも、邪魔されたくないので」
僕は、そう言って、微笑んだ。その微笑みが、彼女の目には、どれほど不気味に映っていたことだろう。
そして、僕は、告白を始めた。
「一条先輩。ずっと、好きでした」
そこまでは、良かったのかもしれない。
だが、僕の口から続いた言葉は、もはや、愛の告白などではなかった。それは、支配欲と、嫉妬と、狂信にまみれた、醜悪な要求の羅列だった。
「僕には、先輩しかいないんです。先輩は、僕にとっての、唯一の光で、僕だけの聖女なんです。だから、お願いです。僕だけの聖女で、いてください」
僕は、一歩、彼女に近づいた。
「僕だけを見てください。僕だけを、認めてください。他の、くだらない奴ら、特に、風間みたいな、あなたに相応しくない奴と、もう二度と、話したりしないでください」
僕の、その異常な言葉に、彼女は最初、ただ、困惑していた。
しかし、僕がさらに一歩、彼女との距離を詰め、その瞳の奥に燃え盛る、狂気の炎に気づいた時、彼女の表情は、明確な恐怖と、そして、どうしようもなく哀れなものを見るかのような、深い、深い憐れみへと、変わっていった。
「ごめんなさい、桜井くん」
彼女の声は、震えていたけれど、その口調は、どこまでも優しかった。
「あなたの、その気持ちには、応えられないわ」
その言葉は、僕にとって、死刑宣告と同じだった。
僕の理想が、僕の聖域が、音を立てて、崩れ始める。
僕は、何かを言おうとした。違う、あなたは僕を理解してくれるはずだ、と。
だが、僕が口を開くより先に、彼女は、決定的な、最後の一言を、僕に放った。
「あなたのそういうところ、少し、怖い」
その、一言で。
僕の世界から、色が消えた。
音が、消えた。
時間が、止まった。
怖い?
僕が?
違う。
僕を理解しない、君が、間違っているんだ。
僕の理想通りではない、君が、汚れているんだ。
僕だけの聖女であるはずの君が、僕を、否定した。
裏切った。
裏切った裏切った裏切った裏切った裏切った裏切った裏切った!!!!
脳が、焼き切れるかのような、熱い感覚。
思考が、完全に停止する。
後に残ったのは、ただ、原始的な、破壊衝動だけ。
「うるさい」
僕が、そう思った時には、もう遅かった。
僕の両手は、まるで、僕のものではないかのように、勝手に動き、彼女の、その華奢な肩を、ありったけの力で、強く、突き飛ばしていた。
その後の光景は、永遠に続くかのような、悪夢のスローモーションだった。
驚きに、大きく見開かれた、栞の瞳。
バランスを崩し、美しい黒髪を宙に散らせながら、後ろへと、ゆっくりと倒れていく、彼女の身体。
そして。
部屋の隅にあった、古い映写台の、硬く、鋭い、鉄の角に。
彼女の後頭部が、吸い込まれるように、ぶつかる。
ゴツッ。
鈍く、湿った、決して忘れることのできない、おぞましい音。
骨が、硬いものとぶつかり、砕けるような、嫌な感触が、僕の全身にまで、伝わってくるかのようだった。
床に崩れ落ち、まるで糸の切れた人形のように、ぴくりとも動かなくなる、栞。
彼女の、美しい黒髪の間から。
ゆっくりと、しかし、確実に。
鮮やかな、赤い液体が、じわり、じわりと広がり、床に、黒い染みを作っていく。
僕は、ただ、立ち尽くしていた。
自分が、今、何をしてしまったのか、全く理解できなかった。
時間が、止まった。
永遠とも思える、沈黙の後。
遅れてやってきた、圧倒的な恐怖が、僕の全身を、支配した。
僕は、声にならない悲鳴を上げ、鍵を開け、ドアを蹴破るようにして、その場から、逃げ出した。
――これが、監視カメラに映っていた、「真実」だったのだ。
◇
僕の記憶は、犯行直後の、あの必死の逃走へと、続いていく。
僕は、誰にも見つからないように、パニック状態で、旧視聴覚室の強く蹴り飛ばしたドアが反動で閉じていく中、旧校舎の廊下を駆け抜け、そして、自宅へと、転がるように逃げ帰った。
自室のベッドに倒れ込み、ガタガタと、震えが止まらない。
罪の意識。
発覚への恐怖。
そして、僕の聖女を、僕自身が破壊してしまったという、どうしようもない、絶望。
僕の、あまりにも脆弱な精神は、この、あまりにも重すぎる現実を、到底、受け止めきれなかった。
このままでは、壊れてしまう。
僕の心の奥底で、最後の生存本能が、緊急の防御策を、発動させた。
これは、夢だ。
そうだ、これは、悪い夢を見ているだけなんだ。
そして、僕の心は、さらに強力な、自己欺瞞を生み出した。
これは、"なかったこと"に、できる。
僕の無意識は、耐えがたい「殺人犯である自分」の記憶を、心の最も深い場所にある、決して開けてはならないパンドラの箱へと、厳重に封印した。
そして、その代わりに、僕にとって、あまりにも都合の良い、「事件の第一発見者であり、彼女を救おうと奮闘する、悲劇のヒーローである自分」という、全く新しい、偽りの人格を、創造したのだ。
コンピューター室の冷たい床の上で、僕は、蹲ったまま、全てのカラクリを、完全に、理解した。
タイムリープなど、存在しなかった。
僕の精神の時が、あの、犯行の瞬間に、完全に停止してしまっただけだ。
僕が「ループ」だと思っていたものは、事件の後、火曜日、水曜日、木曜日と、警察の捜査が進んでいく現実の世界から逃避し、自室に引きこもっていた僕が、脳内だけで、延々と繰り広げていた、「もし、あの日を、もう一度やり直せたら」という、醜悪な願望が生み出した、完璧な犯罪を隠蔽するための、壮大なシミュレーションに過ぎなかった。
全ての真実を、悟ってしまった。
僕は、もう、絶叫することすら、できなかった。涙も、とっくに枯れ果てていた。
ただ、どうしようもない、虚無感だけが、僕の、空っぽになった心を、支配していた。
僕は、コンピューター室の、冷たい床の上に、まるで、魂を抜かれた抜け殻のように、ぐったりと、横たわっていた。
僕は、ヒーローじゃなかった。
僕は、栞先輩を、救おうとしていたんじゃない。
僕は、僕自身の、醜い罪から目を逸らすためだけに、彼女の、尊い死を、風間の人生を、警察の捜査を、この世界の全てを、利用し、弄んだ、最低で、最悪で、最も醜い、ただの、人間だった。
モニターの、青白い光。
そこには、僕の罪を、永遠に告発し続ける、あの、静かな廊下の映像が、まだ、繰り返し、再生されていた。
その光が、床に転がる僕の、生気のない、空っぽの顔を、冷たく、照らし出す。
僕の瞳は、もう、何も、映してはいなかった。
僕が救いたかったきみは、僕が殺したきみでした。
その、自嘲に満ちた言葉が、僕の、崩壊した心の中心で、慟哭のように、ただ、静かに、響き渡っていた。
この、絶対的な絶望の、その底で。
僕という人間は、これから、一体、どうすればいいのだろうか。
もう、僕に、明日は、来ない。
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