第2話
私が伊角くんと初めて話したのは、同じクラスになって三度目の秋のある日の放課後だった。
『何をするのっ…!?』
無我夢中になって、屋上のフェンスをよじ登っていた私の手を掴んだのが伊角くんだった。予期せぬ事態にバランスを崩した私は、女の子のように白くて細い伊角くんの上に落っこちた。
『……瞳、綺麗』
落ちてきた私を退かすどころか、じっと目を見つめながらそんなことを言った彼とは反対に、怒りや焦りでいっぱいだった私は、私の手首を掴んでいる伊角くんの手から逃れることに必死で。
『離してっ』
『離したら飛び降りるでしょ』
『何も知らないくせにっ…!』
『知るわけないでしょ。僕は貴女を知らないし』
彼の都合で予定を潰されたというのに、予定なんぞ知るかというような口調でそう言われた私は、泣きたいのを我慢しながら彼を見下ろしていた。
『死にたい理由はどうでもいいし、止めたいわけじゃないけど、ここで死なれたら屋上がしばらく使えなくなるからやめてほしい』
『そんなのっ…』
『死人が出たらニュースになるし、目の前で死なれたら俺はインタビューを受けることになる。容疑者に間違えられたら困るし、第一発見者になるのも御免だ。色々とめんどくさいからやめてよ』
だからとりあえずお茶でも飲んで落ち着いて、と。
そう言って、甘さ控えめな紅茶のペットボトルを差し出してくれたのが、クラスメイトだというのに一言も交わしたことがなかった伊角萩だった。
あの日から、伊角くんとは目が合えば挨拶を交わす程度の仲だ。何かで席が隣になっても、屋上から飛び降りようとしていたその理由や原因は何一つ聞いてこなかった。何事もなかったかのように過ごしている。
「……俺、止めたのにな」
そう言って、私を見つめる伊角くんの瞳は、どこまでも真摯で。
「止めてくれたから、また会えたんだよ」
その光が徐々に翳っていくことに、私は気づいていなかった。
「いいや、結果として止められなかった。だから文月さんは…」
「──伊角、誰と話してるの? 早く帰ろうよ」
突然背後から降ってきた声に、思わず声をあげて驚いてしまった。弾かれたように振り向けば、そこには同じくクラスメイトの少年がいる。
「…
伊角くんが名前で呼ぶだなんて、二人は親しかったのか。そんな素振りは見えなかったから驚いた。
「
葦原くんは私には目もくれずに伊角くんへと近寄ると、借りていたらしいノートを伊角くんに手渡す。それを鞄にしまった伊角くんは、帰る気満々な様子の葦原くんを見上げて眉を下げた。
「……倖希、今日は先に帰っててもらっていい? 本当にごめん」
「分かった。暗くなる前に用事終わらせなよ」
うん、と伊角くんが頷く前に、葦原くんは図書室を出て行った。一度も私を見てもらえなかったのは何だか悲しい。
「…私は葦原くんにも嫌われていたのかな」
「違う。そうじゃない」
「じゃあどうして、視界にも入れてくれないんだろう」
あっと思った時には、もう遅かった。
真っ直ぐに私を見つめていた伊角くんの瞳に、仄暗い色が宿る。
悲しいのは私の方なのに、伊角くんの方が深い悲しみに飲まれているような表情をしているのはどうしてなのだろう。
ふいに、伊角くんは立ち上がった。
そうしてゆっくりと私に近づいてくると、そっと手を伸ばしてくる。その指先が私の顔に触れそうな瞬間、私はぎゅっと目を瞑った。
けれど、いつまで経っても伊角くんの熱が私に灯ることはなかった。
「──ほら、触れられない」
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