泡沫(うたかた)

燈の遠音(あかりのとおね)

プロローグ ――泡沫の記憶

あの日のことを、私はいまも、夢のように思い出す。

小さな箱を手渡した、あのときのこと。


波打つ背中を、ただ見送ることしかできなかった。

あの人の影が海に溶けていくたびに、私の中の何かが、ひとつずつ静かに崩れていった。


「開けてはなりません」

そう告げた声に、祈りが混じっていたことを、あの人は気づいていただろうか。


――あれは、願いだった。

あの箱を渡すそのとき、私はもう知っていた。

あの人は、きっと開けてしまう。

けれど、もし開けずにいてくれたなら、あの時間は、泡沫のまま、永遠に閉じこめることができた。


忘れられてもいい。名前を呼ばれなくてもいい。

ただ、夢のなかに私を置いていってほしかった。


でもそれは、叶わぬこと。

あの恋は、もともと泡沫だったのだから。


いまも胸に残るのは、あの人に恋をしたという記憶、ただそれだけ。

たった一度、名前を呼ばれたときの――


あの声だけが、いまも、夢のなかで響いている。

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