⑪大唐故右威衞將軍上柱國祢公墓誌銘 改訂版


参考:大唐故右威衞將軍上柱國祢公墓誌銘

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/140_neikouboshi.html


大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘(序文含む)

大唐の故 右威衛將軍 上柱國 祢公の墓誌銘(お墓に刻まれた顕彰文)


公(祢軍)は、諱(いみな)を軍、字(あざな)を温といい、熊津(ゆうしん)嵎夷(ぐい)の人である。その祖先は中国と同じであったが、永嘉の末期(西暦313年頃)、戦乱を避けて東方(朝鮮半島)へ渡り、そのまま居を構えた。


巍々(ぎぎ)たる鯨山(けいざん)は、青丘(せいきゅう)をまたいで東にそびえ、広々とした熊水(ゆうすい)は、丹渚(たんしょ)の南を流れる。この地は煙や雲に浸食されながらも優れた人物を生み出し、日月が照らす地では賢者たちが育まれてきた。その文才は七子(しちし)をしのぎ、武勇は三韓(さんかん)に抜きん出ていた。この優れた家系は輝きを増し、優秀な人材が代々輩出され、その繁栄は途切れることがなかった。


曾祖父の福、祖父の誉、父の善は、いずれも本国(百済)の最高位の官職「佐平(さへい)」を務めた。彼らは地を正すことで自らの身を輝かせ、天爵(てんしゃく)を身につけて国のために尽力した。その忠誠心は鉄や石のように固く、その操守は松や竹のように揺るぎなかった。彼らの道徳は人々を導き、文武の才は衰えることがなかった。


公は、輝かしい光を受け継いで生まれ、燕の顎(えんのおとがい)のように端正な顔立ちをしていた。その人柄は澄んだ水のように清らかで、日の光のように温かかった。北斗七星の輝きに匹敵するほどの優れた気概を持ち、その才能は天空にまで届くほどであった。


顕慶五年(西暦660年)、唐の官軍が本国(百済)を平定した際、公は時勢を見抜いて剣を携え、唐への帰順を決意した。それは、異民族でありながら周(しゅう)王朝に仕えた由余(ゆうよ)や、匈奴(きょうど)の王子でありながら漢王朝に仕えた金磾(きんてい)のようであった。


聖上(高宗皇帝)はこれを大いに称え、公を栄誉ある位階につけ、右武衞滻川府折衝都尉(うぶえい せんせんふ せっしょうとい)に任命した。


その頃、日本の残党が桑の木の下に隠れて処罰から逃れ、風谷(ふうこく)の生き残りが盤桃(ばんとう)に立てこもり頑なに抵抗していた。数万の騎馬隊が平野を駆け、軍船が海を埋め尽くし、原蛇(げんだ)が援助に駆けつけるなど、激しい戦いが繰り広げられていた。そこで、公が海東(朝鮮半島)の模範であり、瀛東(えいとう)の鑑(かがみ)であることを鑑み、特別に勅命が下り、招撫(しょうぶ)のために派遣された。


公は臣下の節義を貫き、勅命を拝して皇華(こうか)の詩を歌いながら馳せ参じた。まるで海を飛ぶ蒼い鷹や、山を越える赤い雀のように、迅速に任務を遂行した。その結果、海は静まり、空の道が開けた。驚いたカモは連れを失い、夜が明ける前に唐へ戻った。


公は、天子の威光を説き、福が千年にわたって続くことを説き諭した。その結果、僭帝(せんてい)は一夜にして臣下となり、数十人の高官を率いて朝廷に参内した。


この功績により、特別に恩詔が下され、左戎衞郎将(さじゅうえいろうしょう)に任命された。間もなく、右領軍衞中郎将(うりょうぐんえいちゅうろうしょう)兼検校熊津都督府司馬(けんぎょうゆうしんととくふしば)に昇進した。


公の才能は千里を駆ける名馬のようであり、その仁愛の心は百の城を守るに足るものであった。その器量は、優れた木材が森の中にひっそりと佇むように抜きん出ており、その芳香は桂や橅(ぶ)の香りをも凌ぐほどであった。故郷に錦を飾るような華やかさがあり、富貴は変わることがなかった。そして、夜には家で安らかに休み、人々を育むことにも心を尽くした。


咸亨三年(西暦672年)の十一月二十一日、勅命により右威衞將軍(ういえいしょうぐん)に任命された。これにより、宮殿の装飾品のように朝廷を飾り、高位高官の仲間入りを果たした。


清らかな志をますます盛んにし、多くの幸福を享受し続けると思われた矢先、時間の流れはあっという間であり、霜が降りて馬陵(ばりょう)の樹々を枯らし、川の流れは留まることなく、風が竜の水を揺らすように、人生は儚かった。


儀鳳三年(西暦678年)、歳は戊寅(つちのえとら)の二月一日(戊子)の十九日(景午)、長安県延寿里の自宅において、病により薨去された。享年六十六歳であった。


皇帝陛下は、古くからの忠臣を深く思い、その死を長く悼んだ。絹と布を三百反、粟を三百斛(こく)贈り、葬儀に必要な費用はすべて官給とした。また、弘文舘学士(こうぶんかんがくし)であり、本衛の長史(ちょうし)を兼ねる王行本(おうこうほん)に監督させた。


公は、優れた見識と深い知識を持ち、温厚で厳格な人柄であった。真珠に傷がなく、白い玉に一点の曇りもないようであった。その人柄は、十歩離れても香る蘭室の香りのように尊ばれ、周囲からは霊芝(れいし)の丘の草花のように敬愛された。


しかし、公は突然、大空を舞う翼を失い、春の光のようなその人生は急に終わりを告げた。その年の十月一日(甲申)の二日(乙酉)、雍州(ようしゅう)乾封県(けんぽうけん)の高陽里に葬られた。これが礼儀にかなった埋葬である。


四頭立ての馬は悲しげにいななき、墓地は静まりかえった。夜には月が空を駆け、星が輝いている。日は山に沈み、草の色は冷たく、風は野を渡り、松の音が響く。


人里離れた墓地は静かだが、人々の心の中には公の偉大な名声がいつまでも残る。


銘文の訳

公は青丘(百済)の冑胤(ちゅういん)であり、その家系は華麗であった。遠く離れた祖先から続く血筋は、時を得て栄えた。一族は純粋で優れており、代々栄光を継いだ。早くからその功績は明らかであり、皇帝からの恩寵は絶えることがなかった。


其の一


公は桂や蘭のように美しく、その子孫は代々栄えた。その芳香は後世にまで伝わり、その美徳は未来の世代にまで受け継がれていくだろう。公の功績はすでに歴史となったが、その規範は今も生きている。


其の二


矢が飛び、秋の訪れを知らせ、時の流れはあっという間に過ぎ去る。名将の功績は日に日に遠くなり、その徳も年月とともに忘れ去られてしまう。夜風の中で松が吟じ、朝露の中で韮(にら)が悲しむように、公の霊柩は静かに転がり、馬は悲しげに首を巡らせる。陵谷(りょうこく)がいつか移り変わっても、公の功績と名声が永遠に朽ちないことを願うばかりである。


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