⑥『梁書』卷五十四/列傳第四十八


参考:梁書卷五十四/列傳第四十八

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/081_ryojo.html


 東夷の国で、朝鮮が大きい。箕子の化を受け、器物には礼楽があるという。魏の時、朝鮮以東の馬韓、辰韓の属が、中国と通じた。晋が江を過ると、海を汎り、東使に高句麗、百済があった。宋斉の間、常に職貢を通じた。梁が興ると、さらに加わった。扶桑国は昔、未だ聞かず、普通中に道人慧深が彼より来たと称し、その言は元本尤も詳しいので、併せて録した。


 高句麗の先は東明から出る。東明は北夷櫜離王の子だ。離王が出行し、侍児が任娠した。離王が還り、殺そうとした。侍児は言った、「天上に大鶏子の気があり、降りて我に有娠した」王は囚え、後に男が生まれた。王は豕牢に置いたが、豕が口気で噓い、死ななかった。王は神とし、養うことを許した。長じて善射し、王は猛を忌み、復殺そうとした。東明は奔走し、南の淹滯水に至り、弓で水を撃つと、魚鼈が浮き橋となり、渡って夫餘で王となった。その後、支別が高句麗種だ。国は漢の玄菟郡、遼東の東、遼東から千里だ。漢魏世、南は朝鮮穢貃、東は沃沮、北は夫餘と接した。漢武帝元封四年(前107年)、朝鮮を滅し、玄菟郡を置き、高句麗を県として属した。


 高句麗は方二千里、遼山があり、遼水が出る。王都は丸都の下、多大山深谷、無原沢、百姓は依って居り、澗水を食う。土着だが良田無く、俗は節食だ。宮室を好む。居の左に大屋を立て、鬼神を祭り、零星、社稷を祠る。人は凶急、寇抄を好む。官に相加、対盧、沛者、古鄒加、主簿、優台、使者、皁衣先人があり、尊卑に等級がある。言語諸事は夫餘と多同じ。性気、衣服は異なる。五族あり、消奴部、絶奴部、順奴部、雚奴部、桂婁部だ。本、消奴部が王、微弱で桂婁部が代わった。漢時に衣幘、朝服、鼓吹を賜り、玄菟郡から受ける。後、驕り、郡に詣らず、東界に小城を築き受ける。今も幘溝婁と名づける。溝婁は高句麗の城名だ。対盧を置けば沛者を置かず、沛者を置けば対盧を置かない。俗は歌舞を好み、邑落の男女は夜ごとに羣聚し歌遊びする。人は潔清自喜、蔵釀を善くし、跪拜は一脚を申す、行歩は皆走る。十月に天を祭り、東明と名づける。公会は錦繡金銀で飾る。大加、主簿の頭は幘似で無後、小加は折風を着け、弁に似る。国に牢獄無く、罪者は諸加が評議し殺し、妻子を没入する。俗は淫、男女は奔誘多い。嫁娶後、送終の衣を作る。死葬は椁無棺、厚葬を好み、金銀財幣を尽くす。積石で封、松栢を列植する。兄死は妻嫂だ。馬は小、登山に便。人は気力を尚び、弓矢刀矛に便、鎧甲あり、戦闘を習う。沃沮、東穢は属する。


 王莽初、高句麗兵を発し胡を伐つ。不欲行、強迫され、皆塞外に亡出し寇盗した。州郡は高句麗侯騶を咎め、厳尤が誘い斬った。王莽は悦び、高句麗を下句麗と改め、当時は侯だ。光武八年(32年)、王は使を遣わし朝貢、始めて王と称した。殤安間、王宮は遼東を数寇、玄菟太守蔡風が討つも禁じ得ず。宮死、子伯固が立つ。順和間、遼東を寇抄、霊帝建寧二年(169年)、玄菟太守耿臨が討ち、首虜数百級、伯固は降り遼東に属した。公孫度の海東雄時、伯固は通好した。伯固死、子伊夷摸が立つ。伊夷摸は伯固時から遼東を数寇、亡胡五百余戸を受く。建安中、公孫康が出軍、伊夷摸国を破り、邑落を焚焼、降胡も叛き、伊夷摸は新国を作った。後、伊夷摸は玄菟を撃ち、玄菟と遼東が合撃、大破した。


 伊夷摸死、子位宮が立つ。位宮は勇力、鞍馬、射猟に善い。魏景初二年(238年)、太傅司馬宣王が公孫淵を討ち、位宮は主簿大加と兵千人で助軍した。正始三年(242年)、位宮は西安平を寇した。五年、幽州刺史毋丘儉が万人で玄菟から討ち、位宮は步騎二万で逆軍、沸流で大戦、位宮は敗走、儉軍は峴に追、懸車束馬、丸都山に登り、都を屠り、首虜万余級だ。位宮は妻息を単将し遠竄した。六年、儉が復討ち、位宮は軽将諸加で沃沮に奔、儉は将軍王頎に追わせ、沃沮千余里、肅慎南界に絶ち、刻石紀功、丸都山、不耐城に銘して還った。後、中夏と復通した。


 晋永嘉乱、鮮卑慕容廆は昌黎大棘城を據、元帝は平州刺史を授けた。高句麗王乙弗利は遼東を頻寇、廆は制せず。弗利死、子釗が代立、戦い大敗、単馬で奔走した。晃は勝乗、丸都に追、宮室を焚、男子五万余口を掠帰した。孝武太元十年(385年)、高句麗は遼東玄菟郡を攻め、後燕慕容垂は弟農を遣わし二郡を復した。垂死、子宝が立ち、高句麗王安を平州牧、遼東、帯方二国王とした。安は長史、司馬、参軍官を始置した。後、遼東郡を略有した。孫高璉は晋安帝義熙中(405~418年)、表を通じ職貢、宋斉で爵位、百余歳で死に、子雲は斉隆昌中(494年)、使持節散騎常侍都督営平二州征東大将軍楽浪公だ。高祖即位、雲を車騎大将軍に進めた。天監七年(508年)、詔した、「高麗王楽浪郡公雲は、誠款著、貢驛相尋、秩命を隆じ、朝典を弘める。撫東大将軍開府儀同三司、持節常侍都督王は従来通りだ」十一年、十五年(512、516年)、累使貢献した。十七年(518年)、雲死、子安が立つ。普通元年(520年)、安は封爵を纂襲、持節督営平二州諸軍事寧東将軍だ。七年(526年)、安卒、子延が立ち、使を遣わし貢献、詔は延に爵を襲せた。中大通四年、六年(532、534年)、大同元年、七年(535、541年)、累表で方物を献じた。太清二年(548年)、延卒、詔は子に爵位を襲せた。


 百済は東夷に三韓国、一は馬韓、二は辰韓、三は弁韓だ。弁韓、辰韓は各十二国、馬韓は五十四国、大国万余家、小国数千家、総十余万戸、百済はその一だ。後、強大、諸小国を兼ねた。本、高句麗と遼東の東、晋世、高句麗は遼東を略、百済は遼西、晋平二郡地を據、百済郡を自置した。晋太元中(376~396年)、王須、義熙中(405~418年)、王余映、宋元嘉中(424~453年)、王余毗は生口を献じた。余毗死、子慶が立つ。慶死、子牟都が立つ。都死、子牟太が立つ。斉永明中(483~493年)、太は都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王だ。天監元年(502年)、太は征東将軍に進む。尋、高句麗に破られ、累年衰弱、南韓地に遷居した。普通二年(521年)、王余隆は復使を遣わし表、称う、「累破高句麗、今、通好を始める」百済は強国となった。是年、高祖は詔した、「行都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王余隆は、海外に藩を守り、遠く貢職を修め、誠款到、朕は嘉す。旧章を率い、栄命を授ける。使持節都督百済諸軍事寧東大将軍百済王だ」五年(524年)、隆死、詔は子明を、持節督百済諸軍事綏東将軍百済王とした。治城を固麻、邑を檐魯と呼び、中国の郡県だ。


 国に二十二檐魯、子弟宗族で分據する。人形は長、衣服は淨潔。倭に近く、文身者がいる。言語服章は高句麗と略同、行は張拱せず、拜は足を申さず異なる。帽を冠、襦を複衫、袴を褌と呼ぶ。言は諸夏に参じ、秦韓の遺俗だ。中大通六年(534年)、大同七年(541年)、累使で方物を献じ、涅槃等経義、毛詩博士、工匠、画師を請い、敕で与えた。太清三年(549年)、京師の寇賊を知らず、使を遣わし貢献、城闕荒毀を見て、号慟涕泣した。侯景は怒り、囚執、景平で還国した。


 新羅は本、辰韓種だ。辰韓は秦韓、万里を去り、秦世亡人が役を避け、馬韓に来、馬韓は東界を割き居させた。秦人ゆえ秦韓と名づく。言語名物は中国人に似、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼び、馬韓と異なる。辰韓王は馬韓人を用い、世々係り、自立せず、流移ゆえ馬韓に制される。辰韓は六国、後に十二、新羅はその一だ。百済の東南五千余里、東は大海、南北は高句麗、百済と接する。魏時は新盧、宋時は新羅、或は斯羅だ。国は小さく、自通使聘できず。普通二年(521年)、王姓募名秦、始めて百済に随い方物を献じた。


 俗は城を健牟羅、内邑を啄評、外邑を邑勒と呼び、郡県だ。六啄評、五十二邑勒、土地は肥美、五穀を植え、桑麻多く、縑布を作る。服牛乗馬、男女有別。官に子賁旱支、斉旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支、冠は遺子礼、襦は尉解、袴は柯半、靴は洗だ。拜行は高句麗に類す。文字無く、刻木で信。言語は百済を待つ。


 倭は太伯の後と自云。帯方から万二千余里、会稽の東、絶遠だ。帯方から倭は、海水を循い、韓国を歴、乍東乍南、七千余里で一海を度す。瀚海、千余里、一支国に至る。復一海千余里、未盧国だ。東南陸行五百里、伊都国、東南百里、奴国、東百里、不弥国、南水行二十日、投馬国、南水行十日、陸行一月、邪馬台国、倭王の居だ。官に伊支馬、弥馬獲支、奴往鞮だ。民は禾稻紵麻、蠶桑織績、薑、桂、橘、椒、蘇を出し、黒雉、真珠、青玉だ。獣は牛に似、山鼠、大蛇はこれを吞む。蛇皮は堅、斫れず、上に孔、開閉し、光り、射中れば蛇死す。物産は儋耳、朱崖に略同。地は温暖、風俗不淫、男女は露紒、富貴者は錦繡雑采で帽、胡公頭に似る。食飲は籩豆、死は棺無槨、封土で冢だ。人性は嗜酒、歳を知らず、寿考は八九十、百歳だ。女多男少、貴者は四五妻、賤者は二三妻、婦人は無婬妬、無盜窃、少諍訟、軽罪は妻子を没、重罪は宗族を滅す。


 漢霊帝光和中(178~184年)、倭国は乱、相攻伐数年、女子卑弥呼を共立した。卑弥呼は無夫婿、鬼道を挾み、衆を惑かし、国人に立てられた。男弟は国を佐治、卑弥呼は少見、一婢千人で侍り、一男子が出入伝教した。宮室は兵守衛だ。魏景初三年(239年)、公孫淵誅後、卑弥呼は使を遣わし朝貢、魏は親魏王、金印紫綬を假した。正始中、卑弥呼死、男王を立て、国中不服、相誅殺、卑弥呼宗女台与を復立した。後、男王を立て、中国の爵命を受けた。晋安帝時、倭王讚、讚死、弟弥、弥死、子済、済死、子興、興死、弟武だ。斉建元中(479~482年)、武は持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事鎮東大将軍だ。高祖即位、武を征東大将軍に進めた。


 南に侏儒国、人長三四尺、南に黒歯国、裸国、倭から四千余里、船行一年だ。西南万里に海人、身黒眼白、裸で醜、肉美、行者は射食す。


 文身国は倭国の東北七千余里、人の体は獣文、額に三文、直文は貴、小文は賤だ。土俗は歓楽、物豊賤、行客は糧不齎、屋宇あり、城郭無し、王居は金銀珍麗で飾る。屋を繞る壍、広一丈、水銀を満たし、雨は水銀上に流れる。市は珍宝、軽罪は鞭杖、死罪は猛獣に食せ、枉は獣が避け食わず、経宿で赦す。


 大漢国は文身国の東五千余里、兵戈無く、攻戦せず、風俗言語は文身国と異同だ。


 扶桑国は斉永元元年(499年)、沙門慧深が荊州に来、云う、「扶桑は大漢国の東二万余里、中国の東、土に扶桑木多く、故に名づく。葉は桐似、初生は笋、国民は食い、実梨似で赤、皮を績み布衣、綿だ。板屋、城郭無し、文字あり、扶桑皮で紙、兵甲無く、攻戦せず。法に南北獄、軽罪は南獄、重罪は北獄、赦は南獄、不赦は北獄だ。北獄は男女相配、男八歳で奴、女九歳で婢、犯罪は死まで出ず。貴人の罪は大会、罪人を坑に坐せ、対で宴飲、死別分訣、灰で繞る、一重は一身屏退、二重は子孫、三重は七世だ。国王は乙祁、貴人一は大対盧、二は小対盧、三は納咄沙だ。王行は鼓角導従、衣色は年で改、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒だ。牛角長、角で物載、二十斛だ。馬車、牛車、鹿車あり、鹿を養うは中国の牛、乳で酪だ。桑梨は経年不壊、多蒲桃だ。地に鉄無く銅あり、金銀不貴、市無租估だ。婚姻は壻が女家門外に屋を作り、晨夕灑掃、経年で女不悦は駆逐、相悦は成婚、婚礼は中国と同だ。親喪は七日不食、祖父母喪は五日、兄弟伯叔姑姊妹は三日不食、霊を神像に設け、朝夕拜奠、縗絰無し。嗣王は三年国事を不視、旧無仏法、宋大明二年(458年)、罽賓国の比丘五人が至り、仏法経像を流通、出家を教、風俗改まった」


 慧深はまた云う、「扶桑東千余里に女国、容貌端正、色潔白、身体有毛、髪長委地、二三月に入水で任娠、六七月産子、胸前無乳、項後毛根白、汁で乳子、百日で走り、三四年で成人、見人驚避、丈夫を畏れる。鹹草を食う、禽獣の如し、鹹草は邪蒿似、気香味鹹だ」天監六年(507年)、晋安人が海を渡り、風で島に漂、登岸、人が居、女は中国似、言語不可曉、男は人身狗頭、声は吠、小豆を食い、布衣、土墻は円、戸は竇だ。


 倭国は、新羅の東南、大海の中にあり、山や島に依って住んでいる。その国はかつて百余りの国があった。漢の光武帝の時代に、使者を遣わして朝貢し、印綬を賜った。魏の景初3年(239年)、女王卑弥呼が使者を遣わして献上を行い、魏の皇帝から親魏倭王に封じられ、金印と紫綬を賜った。宋の元嘉年間(424~453年)、王讚が使者を遣わして表を奉じ、安東将軍倭国王に進号された。その後は断続的に交流があり、時に通じ、時に途絶えた。


 普通2年(521年)、その王が使者を遣わして朝貢し、表を奉じて方物(地方の特産品)を献上した。詔により、安東将軍倭国王に授けた。


 倭人は顔に刺青し、体に文様を入れることを風俗とし、貴賤の区別がない。土地には竹、木、漆、桑が多く、桑や蚕を養い、織りや紡績を行うことを知っている。人々は長寿で、八、九十歳、あるいは百歳に達する者もいる。魚や鼈を好み、牛や馬はいない。文字がなく、木を刻み、縄を結ぶのみである。鬼神を敬い、過度な祭祀を好む。兵器には矛、盾、弓、矢があり、矢は竹で作り、鏃は鉄または骨である。中国に渡海して来ると、常に大夫と自称する。性質は柔順で、争いや戦いはない。

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