第2話 テレビ番組事情
さらに、ちょうど時代は、
「いじめ問題」
というものから、
「引きこもり」
という問題が生まれてきた。
そうなると、子供がどうしているかというと、
「部屋にこもって、ゲームをしている」
というのは主流になるのだ。
まだ、自分の部屋にテレビがあるということも少なかった時代なので、テレビを見ようとすると、リビングに行ったりしないといけない。そうなると、
「家族と顔を合わせたくない」
と思っているのに、リビングに出ることはできない。
別に、
「親が嫌い」
というわけではなく、
「親からいろいろ聞かれるのが嫌なのだ」
子供からすれば、
「親に心配を掛けたくない」
という思いもあるのだ。
だから、子供からは、
「親に気を遣っている」
といってもいいだろう。
そんな親に対して、
「喧嘩になってしまう」
ということで、
「学校でいじめを受けているのに、家に帰ってまで、親と喧嘩をしたくない」
ということになるのだ。
親とすれば、学校からも言われていることで、しかも、自分の子供の頃は、
「親と話をするのが当たり前」
と思っていただろうから、
「子供との会話を大切にする」
という名目で、
「自分は、親としても責任を果たしている」
という、
「親としての務め」
というものだけを大切にしようとしていることは、特に、引きこもった子供には、看破できるというものだ。
なんといっても、引きこもって一人でいる時間があるのだから、
「これ以上ない」
というくらいに考えるだろう。
だから、ある意味、
「引きこもりの子供」
というのが、一番冷静に見ているのかも知れない。
しかし、いくら、時間があるといって、すべてが見透かせるわけではない。
そこには限界があり、すべてを見ているつもりでも、結局は、
「堂々巡りを繰り返しているだけ」
ということになるのだろう。
そうなってしまうと、どこかで一度我に返ることになり、
「結局は、繰り返してしまっていることに気づきはするが、冷静に見るということに関しては、誰よりもできている」
ということになるのではないだろうか?
しかも、親というのは、
「いつまでも、子供だ」
と思っているもので、その時点で、
「親と子供の精神的立場は逆転しているのかも知れない」
しかし、昔からの、
「親と子の関係」
というのは、本能的にしみついているということになるだろうから、それ以上を言及するということは難しいだろう。
ただ、
「ゲーム」
というものにだけ必死になっているというのは、どこかもったいないような気がする。
「何かクリエイティブなことに挑戦したりするにはちょうどいい時間なのに」
と思うのは、しょせん、
「親の方からしか見ないからだろうか」
それに、テレビ番組で、社会問題の一つということで、
「引きこもり」
であったり、
「それに対しての家族関係」
であったり、その原因となった、
「いじめ問題」
などというものも、ドラマ化されたりしているが、それを見ていると、そのすべてが、
「大人の目からの一方通行」
ということにしかならない気がするのだ。
そんな状態で、
「いじめ問題」
「引きこもり問題」
が解決するわけはない。
時系列とともに、交わることのない平行線を描くだけのことだ、
「永遠に交わることがない」
ということなのだから、そもそも、
「問題が解決するはずはない」
ということで、
「無限地獄だ」
といってもいいだろう。
そして、もう一つ、
「夕方に、再放送番組がなくなったのか?」
ということであるが、これは、
「放送局側」
の問題というのがあるからだった。
そもそも、テレビというのは、
「スポンサーありき」
だといわれる。
実際には、
「テレビ番組」
というのは、テレビさえ持っていれば、某国営放送以外は、無料で見ることができるということだ。
当然、番組を作るのだから、
「製作費、人件費など」
莫大な費用が掛かる。
一つのドラマに言及しても、
「オープニング」
あるいは、
「エンディング」
のタイトルテロップにおいて、キャスト、スタッフと、テーマ曲に合わせる形で、
「クレジット」
されているではないか。
それだけの人がかかわっているだけである。
「キャスト」
つまりは、俳優陣に対しての、キャスティング料もかなりなものだ。
なんといっても、制作にとられる時間、拘束するわけだ。
番組は30分番組だといっても、ロケ地が離れていた李、キャストの他のスケジュールも考えたりするので、その調整にもお金がかかるということで、
「たった30分の枠に、数日掛ける」
ということもあるだろう。
少なくとも、
「話題の人気俳優を数には使わないと、誰も見てはくれない」
ということで、
「主役で見る見ない」
という視聴者が多いことから、その費用をケチってしまうと、番組は成り立たないわけだ。
そして、スタッフもかなりの人件費である。
「脚本、監督、演出」
はもちろん、
「音楽担当。録音、編集、カメラ、照明」
というそれぞれの担当がしっかりしての、一つのドラマである。
そのために、
「その枠の費用をいかにねん出するか?」
ということで、それをかなえてくれるのが、
「スポンサー」
というものだ。
一つの番組で、その提供料によって、コマーシャルを流すということで、
「スポンサーも宣伝になる」
ということでの、
「ウインウインの関係」
といってもいいだろう。
ただ、これが
「再放送」
ということになると、話が変わってくる。
実際には、
「放送局側と、スポンサーとの関係による、一種の秘密事項」
ということであったが、それが、あからさまになったのが、数年前から問題になっている、
「世界的なパンデミック」
という事態が起こってからのことだった。
この時には、
「ほとんどの社会生活の変革」
ということを余儀なくされた。
それは、テレビ界においても例外ではなかった。
問題は、
「伝染病の蔓延」
ということだったので。政府の対策の後手後手にまわり、お粗末なものであったが、その中で行われた、
「人流制限対策」
というものから、テレビ業界でも、
「人を集めての番組制作」
というものが無理になった。
「アクリル板を設置」
したり、
「リモートでの出演」
ということで、何とか情報番組を作ることはできたが、
「ドラマ制作」
というものは無理ということになった。
ドラマ出演や、コンサートや舞台などで、生計を立てていた人は大変だった。
「舞台やコンサートなどは、特に、客席に人を集めたり」
さらには、
「声を出すのが仕事で、興奮する客席からの奇声などが、当たり前」
ということで、一番してはいけない行為ということで、禁止となる。
しかも、
「ドラマの制作も人がたくさん集まる」
ということでできなくなってしまい、制作の人もすべてが、路頭に迷うという地獄を味わったことだろう。
テレビ局とすれば、
「番組の穴をあけるわけにはいじゃない」
ということで、できることとすれば、
「かつて放送したものを、再放送」
という形で放送しないといけないということになるだろう。
そうなると、問題は、
「スポンサーからの収入」
ということであった。
スポンサーとすれば、
「制作宣伝というものがあるから、そのために、スポンサー料を払う」
ということなのだ。
「再放送ということは、制作費は、ほとんどかかっていない」
ということで、収入は見込めないということになるのだ。
そこで、放送局とすれば、
「苦肉の策」
ということで、
「特別編集版」
という形で、
「あたかも、新たに編集した」
ということを匂わせて、
「少しでも、スポンサー代をいただこう」
とするのであった。
それも無理もないことであるが、それを考えると、かつてあった。
「夕方の、特撮やアニメの再放送」
というものがどんどんなくなっていったというのも分かる気がする。
ちょうどその頃が、
「バブル崩壊の時期」
ということで、
「時代が変わった」
ということで、スポンサーも、
「再放送では、宣伝もできない」
ということからか、放送局側も、
「収入がない」
ということは困るという考え方なのか、結局、
「再放送というものを辞めることになったのではないだろうか?」
そして、テレビ界というものの番組編成が極端に変わったのは、
「2000年代になってから」
といってもいいのではないだろうか?
その一番の理由とすれば、
「衛星放送」
というものができてからだった。
実際には、すでに、平成初期くらいから、衛星放送としての、
「有料放送」
という形のものはあった。
大型商業施設だったり、大都市のターミナルなどでは、その宣伝や、会員募集ということで、大きく宣伝を行っていたが、そんな時代に、実際には。まだまだ普及は難しかった。
どうしても、
「有料」
ということに引っかかる人が多かっただろうが、決定的だったものの一つとして、
「それまでの、テレビでの、ゴールデンタイム」
というものに、その秘密があったのだ。
その時間帯、つまり、
「午後7時くらいから9時まで、どこかのチャンネルで、野球中継というものが行われていた」
ということである。
しかも、某有名な球団だけが、あくまでもひいきされ、それ以外の球団では、視聴率が取れないということで、そんな傾向になったのだが、それが一つの導火線だったのだ。
野球というのは、時間が決まったスポーツではない。
サッカーのように、
「延長がなければ、90分と決まっているわけではないので、もし、試合が6時半から開始ということであれば、平均時間が3時間と考えると、30分時間が足りない」
ということになる。
だから、民放などでは、
「どんなにいいところでも、番組を打ち切ってしまう」
ということになるわけで、それではクレームが来るということで、
「スポンサーの好意」
ということを、前面に出して、
「30分延長し。その後の番組は繰り下げる」
ということになるのだ。
そうなると、その後の番組を楽しみにしている人は、
「野球があるから」
ということで、
「好きでもない野球のために、ドラマの開始が遅くなるというのは困る」
ということで、こっちもクレームになるのだった。
そこで、有料番組が。これに眼を付けた。
つまり、
「スポーツ有料チャンネルというものをたくさん増やし、それぞれの球団ごとに、ひいキチムのチャンネルを作る」
ということで、
「試合開始の前、つまり、練習の中継から、試合就労後のヒーローインタビューであったり、勝利イベントまで、かならず放送する」
ということを確約するということになれば、
「月額数百円で、ひいきチームの、少なくとも、主催ゲームは、すべてが見られる」
ということになるわけで、おかげで、
「加入者数が一気に増える」
ということになるのだ。
そのおかげか。
「普通のテレビ放送を見る人が一気に減ってしまった」
ということになる。
そもそも、有料放送は、その利益を、すべて、会員からもらっているので、元々の、ドラマを制作した放送局から、
「権利」
であったり、
「映像」
を買うということで、どんどん、再放送を流せるということになる。
実際に、これが大当たりというわけで、特に、
「ドラマ専用」
であったり、
「映画専用チャンネル」
であれば、過去の番組をいつでも見れるということで、ありがたがられるということになるのだ。
「タダよりも高いものはない」
と言われるが、まさにその通りということで、
「ちょっとだけ出すだけで、それまでテレビを見るだけで抱えていたストレスも解消できる」
ということであるし、
「好きなものを好きなだけ」
という表現だけで、それだけで魅力を感じる人が増えたということであろう。
「それが、民放の番組を、革命的に変革させた一番の原因だ」
といってもいいだろう。
さらに、最近の民放というのは、番組としては、
「いかに、金を掛けないか?」
ということが問題になっている。
一つ大きな考えとして、最初の頃のテレビ番組と、今のテレビ番組の違いの中で、
「昔はあれだけあったのに、今ではまったくなくなっている」
と言えるものとして、
「視聴者参加番組」
というものがなくなってきたということである。
考えてみれば、昔のバラエティ番組では、
「半分近くが、視聴者参加系の番組だった」
と言えるだろう。
「歌番組」
でも、今でも残っているものとすれば、
「某国営放送で週に一度やっている、のど自慢」
くらいだろうか?
昔は、
「家族で出演する歌番組」
というのも結構あった。
もっといえば、
「クイズ番組」
というのも、一時期は、
「毎日やっていた」
といってもいいだろう。
最盛期には、週に5,6個のクイズ番組があり、そのほとんどが、視聴者参加型だったはずだ。
「優勝し、そこから、優勝者だけがチャレンジできるクイズに正解すれば、海外旅行」
などというのもあったではないか。
いろいろなやり方で、バラエティに富んだクイズがあったにも関わらず、今はなくなっている。
これも、理由とすれば、
「経費節減」
ということになるのではないだろうか?
そう、
「テレビ番組の変革」
というのは、
「いかに経費節減できるか?」
ということである。
バブルが崩壊してからというもの、スポンサーであっても、
「経費節減」
ということで、そこまで、
「テレビに費用を掛けない」
ということになるだろう。
さらに今では、
「何もテレビ番組だけが、宣伝方法」
というわけではなく、
「ネットにおいての宣伝」
というものもある。
特に、ネットやスマホの普及から、
「かなり宣伝のやり方も変わってきた」
と言えるだろう。
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