その社には、いなかった
転勤で田舎に越したころ、
なんとなくダムに向かった。
予定があったわけじゃない。
ただ、地図にそれが載っていたから、
行ける気がしただけだった。
最初は普通の道だった。
でもすぐに変わった。
舗装は薄れ、道幅は削られ、
ガードレールがない。
大きな岩が、道にめり込んでいた。
左ハンドルを切れば即、谷底。
右に寄れば、岩肌にボディが削られる。
納車したばかりの車のことを思って、
一瞬だけ引き返そうと思った。
けれど、Uターンできる幅はなかった。
行くしかなかった。
「後悔」が、ブレーキではなくアクセルになる瞬間だった。
ゆっくり、そろりと、
足元だけを見て進むように、ハンドルを切った。
冷や汗が、背中に落ちていった。
辿り着いたダムの近くに、小さな鳥居があった。
無意識に惹かれるように車を降り、
草の間に続く石段をのぼる。
社があった。
でも、小さかった。
腰ほどの高さしかない。
そして──扉が、開いていた。
風のせいかと思った。
けれどその瞬間、
景色がひとつ、ズレたような気がした。
中は暗い。
目を凝らしても何も見えない。
ただ、足元にだけ、なにかが落ちていた。
毛だった。
柔らかく、濃く、あたたかそうな──
けれど、血の匂いはない。
鹿の毛だと気づくまでに、少しかかった。
なぜここにあるのか。
なぜ扉が開いていたのか。
何が、ここにいたのか。
そして今は、どこに行ったのか。
答えはひとつもなかった。
でも、確かにわかっていた。
自分が立っている場所は、
もはや“日常”ではないということ。
あまりにも静かだった。
虫の声すら届かないほどの、
“満ちている無音”。
呼吸が、空気に拒まれていく感じがした。
この風景は、私のためのものじゃない。
そう思った瞬間、
視界が急に“借りもの”になった。
そっと階段を降りた。
何も写さないスマホを手のひらで握って、
背を向けたまま、鳥居をくぐった。
帰り道は、来た道よりも細く見えた。
でも、迷いはなかった。
異物はたぶん、自分のほうだったから。
「帰れるうちに帰っていい」──
そんなふうに、風が言った気がした。
エンジンをかけると、
さっきまで聞こえなかった鳥の声が、ふっと戻ってきた。
それはまるで、
“一時停止”が解除された合図のようだった。
ダムの場所は、もう覚えていない。
けれど、あの時の「間」は、まだ身体の中にある。
それはたぶん、
異世界じゃなくて──
“この世界の奥”だったのかもしれない。
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