密室の犯蜂



玄関の鍵が、出てこなかった。


バッグの底に沈んだまま、指先が空回りする。

ポケットも、違う。

あったはずの場所に、ない。

雨の湿気が風除室にこもっていて、じわじわと汗ばんでいく。



──カチッ。



その音で、空気が凍った。


振り向く前に、“わかった”。

低い羽音。けれど重たく、鋭い。

背中のすぐ後ろに、確かな“命”の気配があった。


ガラスで囲まれた小さな空間。

閉じた出入口。

そこに、自分とスズメバチだけ。


“カチカチ”という音が、何度も繰り返された。

それが「威嚇音」だという知識はあった。

でも、耳で聞いた途端、知識は無力になった。


意味より先に、音が脳を刺した。

「殺気」という言葉よりも直接的で、もっと動物的なもの。


手は震えていた。

それでもなんとか、鍵を探す。

バッグの布越しに金属の感触を掴んだ瞬間、心臓が大きく跳ねた。


鍵が鍵穴に入る。

回す。

でも、すぐには開けなかった。


一瞬、ためらった。

ドアを開けるその動作が、何かを刺激するかもしれない。

そう思った。


でも、それ以上はもう無理だった。

気配が背中を舐めていた。


玄関を開けて、駆け込むように中へ。

ドアを閉めたあと、しばらく息ができなかった。



あとから考えると、不思議だった。

鍵さえ早く出ていれば、ただの“日常”だったかもしれないのに。

少しのタイミングと、一匹の虫で、

こんなにも世界の空気は変わるのかと。


「近づかないで」と思ったときに限って、

相手はすぐそばにいる。


人間関係だって、そうじゃないか。


無理だと思った相手と、閉じられた空間で出会ってしまったとき。

避けたいのに、逃げられない。

声も出せない。

でも、気配だけは確かに感じる。


あの時の私は、たぶん蜂よりも“無防備だった”。

それが悔しくて、今でも思い出すたびに少しだけ笑ってしまう。




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