セイルの夜明け 〜名もなき花が咲き誇るまで〜
TAI
プロローグ 花と緑
夜が明ける。
イシュタルが小さな窓を開けると、冷たい外気が肌を刺した。それでも毎日――この澄んだ朝の気配を、心の奥深くに吸い込んでいく。
今日を、確かに生きていくために。
朝の日課。
「寒いね」と、何気なく交わす会話の後は、白い息だけが残る。
けれどこの場は、不思議と暖かい。
そんな穏やかな日常が、イシュタルは好きだった。
街は今日も活気に満ちている。
石畳の街道の端には、色とりどりの出店が並ぶ。
珍品を売り込む声。土の香りを残す野菜。芳醇な果実の匂い。湯気を立てる鍋。
人々は笑い、銀貨が跳ねる音が心地よく響く。
ときおり通る荷馬車が人波を割り、切り拓かれた道ができる。
すれ違う身体。異国風の男たちが、目つきで周囲を威圧していく姿も見られた。
ここはラグゼリア王国。
王都から少し離れたこの街には、人も物も、風すらも交差する。
街の奥、ひっそりと佇む修道院。
誰もが見過ごすような
苔むした石壁は厚く、静かに時を抱えていた。
外には荷を積み下ろす馬車が一台。
正面の扉は白木でできており、繊細な意匠が施されている。
その扉は、どんな日であれ変わらず、訪れる者を静かに迎えていた。
けれど今日、
その静けさは、音を立てて崩れた。
――バンッ!
荘厳な扉がひしゃげ、無惨に砕けた木片が乱暴に踏み荒らされる。
「どこだ!? 確かに先日――あっちか?」
「お、おやめください! ここは修道院です!」
激しく叩きつけられる扉。女性の悲鳴。
粛然とした修道院に、粗雑で浅黒い男たちが雪崩れ込んでいく。
その中でひときわ屈強な男が、鋭く声を張った。
「探せ。見つけた者は、砂漠の誉れ。
我が王は
“翡翠の目を捧げよ。鍵穴ならば――極上”」
“王”という言葉に、男たちは異様な熱気を帯びた。
修道女たちは身を寄せ合い、恐怖に震える。
泣き出す少女を年長の修道女が抱きしめる。だがその腕も瞼も、わずかに震えていた。
足元には割れた壺。
こぼれた水に濡れる、慎ましくも可憐な白い花。
「壺は、割るな。女も、触れるな。
王は礼節を重んじられる。
我らも慈悲深く、真綿で包むように……」
刺すような視線が、ひとりの修道女を突いた。
「そこの女、顔をこちらに。……そう、茶色か。失礼」
丁寧な笑みと、明確な失望が同時に向けられた。
男たちの探索は修道院の隅々に及ぶ。
壺は割れず、棚は倒れず。
だが、舐めるように執拗な手が奥の奥へと這い回る。
男たちの熱狂とは裏腹に、空気は冷えきっていた。
時が、静かに滑り落ちていく。
ままならぬ捜索、忍び寄る苛立ち。
「血統の証たる“目”。
あるいは扉か、箱か――。
急げ。王はお待ちだ。
あの方の理想を、我らの手で。
“芽吹きある地を、求めよ、欲せよ。
命の輝きが、我らを照らすであろう”」
「こっちはいないぞ。……待て、扉がある。外か?」
物置と見まがう部屋。
高く積まれた棚の奥、小さな扉がひっそりと存在していた。
ギギギ……
軋む音の先にあったのは、凍てつく空気と、まだ弱い冬の陽光だった。
「――追え。近隣の町も探せ。
我らが王の望みに従え」
怒りを抑えるように、男は辺りを見回す。
仄暗い瞳が捉えたのは、気丈に立つ老齢の修道女だった。
「……ご存知のことを、お聞かせ願おう」
散らばる白花を拾い、男はそれを差し出す。
口元には微笑を浮かべながら。
「驚かせてしまい、申し訳ない。
我が主のお心ゆえ、我らもまた清らかに。
――だから、貴女方も、誠意を」
柔らかな言葉。だが、その視線は抉るように鋭かった。
老女の目には、確かな意志が宿る。
だが、花を受け取る手はわずかに震えていた。
広場では子どもたちが駆け回り、母親が穏やかな声で呼んでいた。
空にはためく国旗。獅子と天秤を象った黄色い意匠が、勇ましく空を裂いていた。
その下を、一台の荷馬車が通り抜ける。
布に覆われた荷台の奥。
ひとりの女性が張り詰めた表情で外を見る。
走るのは馬。だが、彼女の呼吸もまた荒い。
遠ざかっていく街を見つめながら、彼女は修道院長の言葉を思い返す。
――王城へ行くのです。あそこであれば、きっと。
あぁ……イシュタルよ……
老いた女性の涙。書簡を渡す手。
別れの抱擁は、まるで母子のようだった。
扉を蹴破る音が、彼女の耳の奥で何度も反響する。
(また、私は……逃げるしか、ないの?)
手にした革袋を、爪が強く掴む。
指は白くなり、微かに震えていた。
胸を打つ鼓動が、車輪の音をかき消す。
噛みしめた唇から、鉄の味がした。
(血……)
深く、息を吸い込む。
積荷に残る青菜の匂いが、鼻を刺す。
生きている。
今ここに、自分は、確かに。
(これは――希望。
私が、守ります。お父様……)
革袋を胸に抱き直す。
中の小箱の形、冷たさを、確かめるように。
翡翠色の眼差しが、遠くに霞む王都を射抜いていた。
そこには、雑踏と、見知らぬ日々が待つ。
頼れる者など、どこにもいない。
名もなき民として――この国を生きねばならない。
けれど彼女は、まだ知らなかった。
この国で“ただの一人の民”は、何よりも価値を持つということを。
小箱の中に眠るものは――
争いの火か、希望の光か。
それとも、まだ人知れぬ悩みなのか。
冬。
種は、寒空の下で芽吹く時を待っている。
そこから花開くのは、愛か。あるいは、戦か。
これは、これから出会う二人が育む、“種”の物語。
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