Distort×Disorder

一木 樹

起段

起段 --- 永浦永輔




「オヤジ、大根とこんにゃくくれ」

 白い息を吐きながら、暖簾をくぐる。

 夜勤の日雇いの肉体労働を終えて、やっと食事にありつける。

 深夜3時。一日の中で、最も気温が落ちる時間帯だった。

「よおエースケ、遅くまでごくろーさん。はいお待ち」

 気前のいいひげ面が、手際良く出汁に浸ったおでんを皿に盛って差し出す。

 寂れた歓楽街の外れにぽつんと現れる、おでんの屋台で帰宅前の夜食だ。

 大根を箸で十字に切る。それを口へと放り込んだ瞬間、傷に痛みが走った。

 しかめっ面をオヤジに気づかれる。

「ん……? よく見たらエースケおめえ、どうしたんだそのケガ」

 吐き出さないように口を閉じて、その熱さと痛みに身もだえする。

 顔面の数か所に絆創膏。頬には大きな湿布が貼ってあった。

 そしてその裏。口の中の裂けた傷のことをすっかり忘れていた。

 我慢しきれず、お冷で一度大根を流し込む。

「はぁ……熱い痛いで味分っかんねぇや……」

 おでん屋のオヤジが空になったコップに水を注ぎながら、呆れた顔をする。

「まーた喧嘩か」

「昨日の晩、桑島たちとやり合ったんだよ。言いがかりつけてきて、根倉町の廃工場で3人相手に殴り合い」

 頬をさすりながら事の顛末を話す。

 まったく、昨日は散々だった。なんと言っても3vs1。正々堂々なんてお互い似合わないにしたって酷い。

 不良同士、目につくのは仕方がない。行きつく先は似たもの同士仲良くやれるか、同族嫌悪か。両極端な奴らばっかりでうんざりしてしまう。

「高校生の時から相も変わらず、やんちゃやってるなあお前ら。でも程々にしとけよ。どうせ肉体労働しか働き口ないんだから」

「要らない心配だな。負けるわけないし、ましてや働けなくなるようなケガなんて」

「バカ、お前じゃないさ。心配なのは桑島たちの方だっつの」

「……次の喧嘩では手加減するよ」

 そうしてやれ、とオヤジは自分用にビール瓶を傾けて、グラスに注いだ。

 ここで喧嘩はするなと言わないくらいに、オヤジは俺たち不良の性分をよく知っていた。

 食べやすいように、大根をいつもより小さく切り分ける。

「それにしても根倉って言ったらすぐ隣なのに、俺の耳まで届かないなんて……ああ、今日も一日通り魔の話で持ち切りだったからか」

 八等分のサイズになった大根を傷に触れないように慎重に食べた。

 よく染み込んだ出汁の優しい味が、全身を内側から温める。

 そのほっこりした心に、聞きなれない言葉が引っかかった。

「ん……? 今、なんて?」

「通り魔だよ、通り魔。巷じゃもっぱら、“血十字殺人”なんて大層な名前で呼ばれてるよ」

「はあ? 血十字?」

「そうだよ。ったく、自分の町のことだってのに、不良はニュースも見ねぇのか」

 などとぼやきながら、オヤジは古い小型テレビをいじり始めた。

「どうせ地方のニュースでやってるさ、ほれ」

 チャンネルが何度か切り替わり、音質の悪いニュースキャスターの声が聞こえてくる。

『被害者の古橋深幸さんは吹奏楽部の部長やクラス委員など人望もあって同級生や後輩から非常に慕われていた人物と……ここで新たな情報が入ってきました。同じく、埋芽市で起きている連続通り魔殺人事件に関する速報です』

「お、ちょうどだ。続報だとよ。こりゃ今日も誰か殺されたな」

 オヤジが腕組しながらテレビ画面を見つめる。

 俺はそこまで興味が湧かないまま、今度はこんにゃくにかぶりつく。


『今朝、埋芽市の東に位置する根倉町で新たに2人の遺体が発見されました。現場は既に使われなくなっていた工場跡で、その資材置き場と見られる場所です』


 こんにゃくをつかんだ箸が止る。視線を上げると、テレビに映るのは、見覚えのある廃工場だった。

「おいおい、根倉って言ったらすぐ、隣……ん? あれ、さっき……」


『2人はいずれも未成年と思われる若い男性。死体はこれまでの殺人事件と同様に、チェーンソーのようなもので縦横に切り裂かれており、激しく損傷していた模様です。また、以前の二件とは異なり、致命傷の以外にも殴られたような打撲のあとが多数見受けられ……』


 まさか。

 おでんでようやく体が温まるような肌寒い季節なのに、突如として全身から汗が噴き出す。

「なあ、エースケ……昨日お前が桑島たちと喧嘩した場所って……」

 オヤジの声がどこかへ遠ざかっていくような錯覚。

 同時に、俺の全神経は、テレビから流れてくる声に傾けられた。

『警察は根倉町工場跡周囲の聞き込み調査の結果から、昨晩4人の若者が喧嘩をしていたとの情報を得ています。警察はこの事件の重要参考人として残りの2名の青年を捜索中です』



「――――やっと、見つけた」



 ついには、世界の時間さえもが止まったような気がした。

 テレビの続きも聞こえない。持っている箸の感覚もない。さっきまで噛んでいたはずの、こんにゃくの欠片の感触も、何もかも。

 理解が遠のく。真っ白になる錯覚。

 あいつら、殺されたのか?

 そのせいで、俺は背後から忍び寄る気配に、気づかなかったらしい。


「エースケ、避けろ!!」 


 心底驚いた顔のオヤジと目があったその次の直後、俺は反射的に屋台の食卓に飛び乗った。

 食べかけの大根とこんにゃくが宙を舞い、おでんのつゆが飛び散る。

 振り返った暖簾の向こうから何かが振り下ろされて、反射した光がまぶしく見えた。

 暖簾が真ん中から割れる。

 さっきまで座っていたベンチも真っ二つ。

 暖簾が落ちて開けた視界の先に見えたのは、月明りに輝く日本刀だった。


「やっと……やっと見つけた。深幸の、かたき!!」


 セーラー服のスカートとリボンが夜風に揺れた。

 目の前で日本刀を構える女子学生。幼さの残る風貌から、中学生のように見えた。

 初めて生で見る日本刀は月光をねて、妖艶なほどの美しさが目を奪う。しかしそれが刃物だと理解した瞬間、自分が危機的状況だってことが頭に叩き込まれる。

「殺してやる……!」

 先ほど縦に振りおろされた日本刀が、屋台の暖簾と、椅子を両断した。

 今度は突きの構えだ。喉元を狙った切先は、次こそ俺の命を奪うだろう。

 とにもかくにも混乱していた。

 チェーンソーの通り魔って怖すぎだろ、俺が疑われてる!? 桑島は!? 昨日喧嘩したあいつらが死んだ。目の前のこいつは……誰だ? 女絡みで恨みを買うなんて、奥手な俺にあるわけないのに!

 そんなところに、目の前で日本刀が再び迫っていたとしても、頭での処理は到底追いつかなくて――


「馬鹿、エースケ! 早く逃げろ!!」


 オヤジが俺の背中を思いっきり突き飛ばす。

 地面を転がって振り返ると、おやじの目の前を日本刀が通りすぎて、小型テレビに突き刺さっていた。

 良かった、オヤジは無事だ。

「人殺しのクセに、往生際が悪い」

 ギロリと鋭い眼光がこちらを睨む。日本刀が空を切る音で身の毛がよだつ。

 俺は大した取り柄もない不良だが、通り魔なんかじゃないし、まだ死にたくはない!

 立ち上がると同時に走り出した。

「待て! 通り魔!」

「バーカ、誰が待つかよ!! ……あ、やべ」

 つい、挑発的な返事をしてしまう。

 がらの悪い奴らとの追いかけっこのノリでやってしまった……相手は凶器を遠慮なくぶん回す奴なのに……!

「許さない……絶対、許さない……!!」




 ◇◆◇◆◇




 誰もいない路地を全力で走る。

 どれほど走ったのだろうか。息がそろそろ持たなくなってきた。日頃から追いかけっこは慣れているつもりだったが、命がけとなると緊張の具合が違う。いつもの半殺しがまだ可愛く感じるほどだ。

「ハァ……ハァ……!」

 カラースプレーで描かれた下手くそな落書きと、ステッカーがベタベタ貼られた壁を横目に駆け抜ける。

 錐尾と呼ばれるこの地域には、薄暗い建物の影が続いていた。

 この辺りは根倉の工場群で勤めていた家族向けの団地やアパートが多い。工場が時代の煽りで次々と畳まれていく中で、住民はいなくなり、作りかけのマンションも放置されてしまった。

 根倉の廃工場と錐尾の廃墟マンションが子供のころからの遊び場だった。

 この一帯の鬼ごっこであれば、負ける気はしない。

 全速力のまま路地の角を曲がり、正面に住人のいない造りかけのマンションが見えた。

 通称幽霊マンションと呼ばれ、一時期ここで肝試しをするのが流行った。

 今思えば住人が入る前に施工が中断されたのだから、そもそも所縁のある幽霊だって居やしない。ただの悪ガキの溜まり場だ。

 背後を振り返ると、日本刀を手にした女が、まだ俺を追ってきている。

 立ち入り禁止のフェンスに沿って走る。この先にペンチで切られた入り口があるはずだ。

「よし、狭いけど通れる!」

 穴をくぐって敷地の中に転がり込んだ。

 フェンスの外から迫る足音。

 だが、ここには悪ガキが運び込んだガラクタがたくさんある。

「使えそうなものは……」

 目についたのは八百屋の看板。軒先に掲げるサイズで、抱えると俺の身長を超えるが、その大きさがちょうどいい。

「おらぁっ!!」

 フェンスの入り口をふさぐように押し付けた。

 まだ足りない。転がってる大物のガラクタを積んで、バリケードを作っていく。

 土嚢、床屋のカラフル縦ロール、ドラム缶、ひしゃげたバス停の停留所案内。

「はぁ……はぁ……これだけ積めば……どうだ、入ってこれないだろ……」

 息切れしながら、フェンスの向こうにたどり着いた人物を睨む。

 やはり、その姿はセーラー服をまとった子供だった。

 街中で見かければ、不良の俺を怖がって近づかないような女子中学生と一緒だ。

 しかし、その異常なまでに鋭い眼光と右手に握った日本刀から、本物の殺意がビシビシ伝わってくる。

「逃がさない……通り魔は、あの娘の仇は、私が……」

 彼女は虚ろにそうつぶやくと、塞がれたバリケードから数歩進んだ。

 振り上げられた右手の先で、再び月光が反射する。

 短い悲鳴のような音が数回響いた。

「私が殺す」

 女子中学生は、十字に切り裂かれたフェンスを蹴り開けた。

「わぁーお……やっぱ日本刀ってよく斬れんだな……!」

 俺は引きつった笑顔を浮かべて、後ずさりした。

 近くにあった鉄パイプを手に取り、威嚇するように相手に突き付ける。

 目の前で三度、日本刀が構えられる。時代劇でしか見たことがない、武士のような気迫に圧倒される。

 脳裏に、俺の体が十字に切り裂かれるイメージが浮かんだ。

 勝てる気がしない。

 喧嘩じゃない。

 相手は、俺を殺しにきている。

 殺意なんて相手に向けたことがない俺には……。

「くそ……来るなぁっ!」

 俺はせっかく手に取った鉄パイプを女子中学生目がけて投げつける。

 同時に、マンションのエントランス部分に向けて走り出した。

 後ろでカラン、と金属音が響く。鉄パイプは簡単に避けられてしまったようだ。

 エントランスといっても扉はなく、セキュリティは皆無だ。

 打ちっぱなしのコンクリートの箱の中を走る。

 突き当りにある非常階段に足をかけて、上へと昇った。

「はぁ……いやだ……ぜぇ、はぁっ……」

 息切れを無視して進む。全力で駆け上がり、このまま走り続ければあの殺意から逃れられるのではないかと思った。

 だが、それは大きな間違いだ。

 階段が終わり、俺は勢いのまま最上階の真ん中まで歩いて、そこで立ち止まった。

 強い風が吹き抜ける。

 真上の空は暗い。しかし、住宅街の先に見える地平線は明るくなり始めていた。

 大きく吸い込んだ冷たい空気が、肺の内側からも身体を冷ましていく。

 残り僅かな思考能力で、自分が愚かな判断をしてしまったことに気づいた。

 カツン、カツンと。ローファーがコンクリートを叩く音が響く。

 背後から階段を昇る音が、断続的に聞こえてくる。

 しまった。

 やらかした。

 ここは地上8階。最上階だ。

 逃げ場は、もうない。


 振り返ったその先に、セーラー服と日本刀が見えた。


「覚悟はいいか、殺人鬼」

「良くねぇ、よ」

 足が棒になったように重い。

 コンクリートの床だけが広がるこの屋上で、日本刀を避けて逃げる体力は残っていない。

 早朝から現場に入って肉体労働して、不眠不休で働いたあとのおでんの休みすら奪われて走り続けたんだった。

 硬くて冷たい床にへたりこむ。

 迫りくる殺気。目の前に凶器。


 ――ああ、死ぬんだ。


 ここで俺の人生は終わりなんだ。

 両親や学生時代の友人たちの姿が思い浮かぶ。

 みんな悲しんでくれるかな? 死んだら葬式くらいやってくれるかな。

 そこで、自分の大切な人たちが涙を流している未来を想像して、

 だめだ。

「……殺すのは、勘弁してくれ」

「いいえ、殺す。お前がしたように、十字に裂いて殺す」

「逮捕でも裁判でもなんでもいい、まだ死ねない!」

「往生際が悪い」

「何かの間違いなんだ! 俺は違う、殺人犯なんかじゃ、通り魔なんかじゃないんだ!!」

 そう言った次の瞬間。

 一際眩しい金色の光が、高く掲げられた日本刀に反射した。

 首をひねると、地平線から顔を出した太陽と目が合った。

 夜明けだ。

 鬼ごっこをしている間に、朝になってしまったらしい。



「……はあ、時間切れかぁ」



 そう呟くと、彼女は日本刀を腰の鞘に納めた。

「命拾いしたねアンタ」

「……は?」

「お天道様の下で、人を殺めることはできないでしょ」

 謎の理論を口にした彼女からは、禍々しいほどの殺気が消えている。

 彼女は後ろ手に何かを取り出しながら、おもむろに顔を近づけてくる。

 は? え?

 整った顔立ちが目の前にあった。こいつ、よく見たらキレイな顔してやがる。

 余りの至近距離に緊張したが、その視線は俺の背中側を覗き込んでおり、ガチャン、と何かが音を立てた。

 手首に触れる冷たい感触と、不自由。

 固定された両腕がうまく動かせない。

「ナニコレ、手錠……!?」

「うん。一度使ってみたかったの」

「いやいや、何で手錠されてんの俺!? 外せよ!」

「今すぐ殺さないだけ感謝してよ容疑者。次に日が沈むまでが執行猶予。それまで、アンタはこれで拘束するから」

 彼女は冷たい視線でこちらを睨んだ。俺への恨みは消えていないらしく、綺麗な顔が恐ろしく感じた。

「……執行猶予って、なんの?」

「もちろん、死刑の」

「……ハハ」

 俺の口から出た乾いた笑いが、早朝の澄んだ空気と、白んできた空に虚しく溶けた。



 これが俺の血十字事件の始まり。

 容疑者でもなければ被害者でもないはずなのに。

 無関係な俺が、歪んだ奴らの饗宴に巻き込まれていく。

 これから始まるのは、そんなはた迷惑な話だ。


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