形代の夏

冬見

立夏

 陽光差し込み、視界にグレアが生じる。グラウンドを揺らす陽炎は疲れていた。

 ぼくはそんな中、ドッヂボウルに励んでいる。

 ボウルは生温い風を切ってか細く、白く、未成熟なぼくの身体を捉えて直進する。

 相手の動きを読んでいる訳ではないぼくにとって、其れは必殺だ。

 相手の誰もが勝利を確信し、味方は独り残ったぼくの敗北を先読みして項垂うなだれた。

 しかし、ぼくは負けたと思っている訳でも無かった。

 規矩きくとした動きを見せてくれる。其の判断は誰よりも無誤で、無欠で、無敵で、無敗であった。

 故にぼくは泰然たいぜんとした態度での判断を待てる。

 ぼくはの動き通りに神経電流を流し、筋肉の収縮を行う。

 勝利を確信していたボウルは目標から離れ、虚空へと消えた。

 しかし、其れは須臾しゅゆ

 次の瞬間には、ボウルは物理運動を忘却する。ぼくの掌の中で其れの運動エネルギーが発散していた。

 周りの誰もがその不可思議で理解の範疇を越えた出来事に驚嘆きょうたんを漏らしていた。尤も、ぼくはただ相棒の助言に従ったまでなのだが。其れは無理もない。ぼくの相棒はぼくにしか視る事の出来ない、特別な存在なのだ。

 無論、幽霊等と云うチャチな存在にあらず。

 実体は無く他者からは認知の外ではあるものの、その様な事は些事さじに過ぎない。

 スポーツに於いても、勉学に於いても、他多数に於いても的確で神の領域に近い……預言のような、三国志で活躍する優れた軍師の計略のような、物理学に於けるラプラスの悪魔のような言葉を、行動を指し示してくれる。

 貪婪どんらんなぼくにはうってつけの相棒だった。

 そんながぼくの前に現れたのは昔からでは無い。

 極最近、何気ない日常の中で突如がぼくの世界に入り込んできた。其れからと云うもの、ぼくはあらゆる成績を伸ばし、気味悪がられたものの、有頂天になっていたぼくは自分の力を神通力等と呼称した時もあった。

 しかし、家で安息の時を経ている時には稀に独りで喋っている(無論ぼくはと話しているのだが)事があり、両親からは一度診断に連れて行かれた事がある。

 医者が言うには、解離性同一性障害だそうだ。かつての言葉で、多重人格。

 しかし、ぼくには本当には居ると思っている。

 勿論、其れが他者から見てうつろが故にそう云われているのだが。夢と現実の狭間と云うものは人間が簡単に判断出来る物だろうか。

 そんな疑問は仕舞い込みつつ、ぼくは一つの考えを巡らせた。

 所謂よくフィクションに登場する多重人格……ジキルとハイドの様な者を想像していただきたい。

 能面の様に付け替えたら人としての役割が変わり記憶などをセグメントで分割している訳でもないのだ。

 故に、此の結果には些かばかりの誤りがあるとぼくでは無くが言っている。

 どちらかと言えば脳内にある箱に住まう、鎖に縛られた少女が的確な表現だ。

 其の少女は自由が無いながらも妙にアクロバティックに、調和美的に、ハリウッド映画の如く正確無比な表現を行う。

 少なくとも、此の最近で記憶にない自己の出来事は聞いた事は無く、親が夢遊病の話をしていた事も無い。親が話していないだけかもしれないが、記憶違いを避けるために三十分毎に記録を付けた事もあったが、何一つ異常な点は見られ無い。

 だからこそぼくはは病理上の存在では無く、実存の上に成り立つ虚像と表現するのだ。

 其れから数週間が経つ。

 夜のとばりはすっかりと降り、ぼくは今の場に想いを馳せる。

 ぼくは此の都市を離れる事となった。

 其れは少しばかりさかのぼる事になる。

 其の日、珍しくオヤジが上機嫌で帰ってきた。

 夕食時に其れを尋ねると、オヤジは隠す気も無く淀みなく話した。

 長年連絡の付かなかった友人から久しぶりに返答が来たのだ。

 何でも、其の彼は村長だとかで、役務が忙しかったのだろう。

 仕事に一区切りがついたのかは知らない事だが、こうして連絡が付いた事は喜ぶべき事だ。

 そして、オヤジは更にとんでもないことを夕食のハンブルクステヱキを箸で突きながら言ってのけた。

 其れは此の家を離れ、遠くの村で少しばかりの間暮らすという話だ。オヤジの言葉を其のまま引用するのであれば、昔馴染みと約定やくじょうが成立したのでな、僅かばかりか生活は楽になるさ。との事。

 しかし、ぼくは其処まで狼狽える事も無かった。

 都会での暮らしは物質的に満ち足りてはいるものの、どこか煩雑で混線的で無機的で圧迫感がある。

 何より仕事に困る事はないとの事だが特有の人間関係などから安定性は意外にも欠けるのだ。

 結局の所、人と人の繋がりが精神的な安定に寄与するのだと再認識したのだ。

 其れに、新しい人間関係には冒険に似た感覚を覚える。

 僅かの間ではあるものの、馴染みの無い田舎(昔に住んでいた事があるみたいだが、都会生活を一ヶ月でも経験すると人と云う生き物は都会に順応し野性や自然を忘れてしまう)と云う暮らしは、ぼくの中にある種の空想を膨らませていた。其れは三流作家のイメヱヂする空想小説並に荒唐無稽なものであったが、其れでもぼくの荷造りの手を止める程には思考を覆い尽くしていた。

 そんな喜びに満ちた感情の中、ぼくの中に寒気とも同一化される悪寒が全身をはしった。

 冷気が足の爪先からすっと入る感覚は此処最近感じた事の無い、自然や病理とは掛け離れた何かであった。

 奇妙な気配が通り過ぎた頃には、母親が戻ってきて頭蓋を揺さぶるかの如く一喝いっかつをした。

 本棚の荷造りを終えた頃、ぼくは其の奇妙な感覚をいた。

 しかし、其の答えは曖昧で、形而上学的で、霧状なはっきりしない物であった。

 そんな一日に生じる小さな疑問は一睡すれば消えるとは昔の偉い人が言った通りで、次の日にはぼくは友達とのお別れ会を済ませ、引っ越しの車内で景色を眺めていた。馴染みのある景色が徐々に遠ざかっていく。何だかんだ言って、寂しげな感情を抱えて行くものなのだとぼくは結論を出した。

 不自由であったり窮屈な生活が在りはしたものの、其処で育まれた人間関係も至宝であったのだろう。

 転校の時に貰った寄せ書きに一粒の雫を落として、ぼくは車体の進むべき方向である前を見据えた。

 見慣れた通学路、飛び出し中尉の看板、近所の床屋、橋梁きょうりょうで三次元的に交差する自動車と鉄道、思い出が過ぎ去っていく。少し小さな冒険感覚で歩んだ道を過ぎた後は、未知の風景のみが只々続く。

 記憶を持って、ぼくの青春の一ぺーじを此の場に置いた。

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