道具を見る目

「董卓め……! あの逆賊が、漢の社稷(しゃしょく)を食い物にしておる! このままでは、四百年の栄光も、奴の欲望の前に塵と化すぞ!」


障子越しに響く声は、炎のように荒々しく、刃のように鋭かった。言葉の一つひとつが、胸の奥に突き刺さる。

すぐそばで侍女の小蘭が「旦那様、お声を……」と控えめに制するが、その制止も、燃え盛る炎の前では風のようにかき消されてしまう。


「分かっておる! だが、このまま手をこまねいて、高祖(こうそ)にお顔向けができようか! 何としても、あの国賊を討ち果たさねばならぬのだ!」


押し殺した怒声の中に混じるのは、血の味がするような憎悪だった。私は息を潜め、襖一枚隔てたその声に耳を澄ませる。

――これが、私の養父、王允。漢王朝の三公の一人、司徒の位にある男。


物語で知っていた通りの人物像だ。忠義に厚く、国を思う心は本物だろう。それは疑う余地がない。

しかし……その声音には、ただの正義感だけではない、もっと鋭く冷たいものが混じっていた。

目的のためならば、あらゆる手段を選ばぬ――そんな匂いが、隠しきれずに滲んでいる。


そして、その「手段」に……きっと私が含まれている。

背筋に氷を押し当てられたような感覚が、すっと走った。


翌日。

ようやく熱も引き、体を起こすことができるようになった私は、小蘭の手を借りながら複雑な衣の結び目を整えてもらっていた。

薄絹の袖が、腕の動きに合わせて静かに揺れ、その感触は確かに美しい。だが私の心は、とてもその優美さを味わえるような余裕はなかった。


「お嬢様、姿勢をもう少し……はい、そうです」

鏡に映る自分は、恐ろしいほど整った顔立ちをしている。目を見張るほどの黒髪の艶、透き通る肌……。

それらが、もはや私にとっては呪いの証にしか思えなかった。


衣装を整え終えると、小蘭が「旦那様がお見えです」と告げた。

心臓が、ぐっと胸を押し破らんばかりに脈打つ。

逃げられない。会わなければならない。


襖が静かに開かれる音がして、王允が姿を現した。

年の割に背筋は真っすぐで、その顔立ちは、鋭さと品格を併せ持っている。

立ち居振る舞いには、長年、漢王朝の頂点近くに立ってきた者の自負と自信が宿っていた。


「貂蝉か。顔色が戻ったようだな。安心したぞ」


声色は柔らかい。だが、その瞳が私をとらえた瞬間、全身に鳥肌が立った。

彼の視線は、温かさや愛情を含んではいなかった。

それは、氷の刃のように冷たく、そして残酷なほど計算高い光を帯びていた。


その目は、私の顔、首筋、肩、手の甲、足先――隅々まで、寸分の隙も逃さず舐めるように動いた。

けれどそこにあるのは、父が娘を見守る眼差しではない。

それはまるで、高価な宝剣の刃こぼれを確かめる目、美しい翡翠の透明度を測る目――ただの「価値」を見極めるための目だ。


全身に、ざわっと粟が立った。喉の奥が乾き、息をするのも重くなる。


この男は――私を「娘」とは見ていない。


「美しいな、貂蝉」

王允は、ゆっくりとした口調でそう告げ、唇の端をわずかに上げた。

その表情は、どこか陶酔にも似ている。だが、私にはそれが心の底から気味悪く映った。


「お前を見ていると、この国の行く末も、まだ捨てたものではないと思える」

「……」

「お前こそ、天が、この漢王朝をお救いになるために、我が家にお遣わしになった仙女なのかもしれん」


仙女――

響きだけを聞けば、讃える言葉だ。だが、その裏には、はっきりと「利用する」という意志が潜んでいる。

私には、それが痛いほどわかった。


この男にとって、私は愛すべき養女でもなければ、守るべき存在でもない。

董卓という国賊を討ち果たすための――美しく装飾された、たった一つの駒。


人の心も、未来も、自由も、すべてを削ぎ落とされて残った「価値」。

私の正体は、その一語に集約されていた。


――道具。


王允の瞳に映る自分を直視するのが、これほど恐ろしいとは思わなかった。

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