第5話「帰路と、缶コーヒー」



 東京での三日目の朝は、冬らしく澄んでいた。

 宿の前でエンジンを温めながら、小熊は空を見上げる。昨日までの雨が嘘のように、青が広がっていた。

 礼子と椎も、荷物をしっかり括り付け、帰路の準備を終えている。


「じゃ、帰るか」

 礼子の言葉に、小熊は頷いた。

 赤いハンターカブが先頭、次に小熊、最後に椎――行きと同じ順番で走り出す。


 東京の街並みが、次第に遠ざかっていく。

 高層ビルの影が短くなり、郊外の景色に変わるころ、胸の奥に少しだけ名残惜しさが芽生えた。

 それでも、ハンドルを握る手は迷わない。帰るべき場所があるのは、悪くないことだと思えた。


 昼過ぎ、道の駅で小休止を取る。

 自販機の前で、三人並んで缶コーヒーを選ぶ。

 小熊は迷わず、あの青いラベルの微糖を押した。カラン、と落ちた缶を手に取ると、金属の冷たさの中に、かすかな温もりがあった。


 ベンチに腰を下ろし、プルタブを開ける。

 立ち上る湯気とともに、苦味のある香りが広がる。

 一口飲むと、舌に広がる熱さと、遠くで過ごした時間の記憶が混ざり合った。


「……また来たいな」

 椎がつぶやく。

 礼子は笑って、「次はもっと遠くまで行こう」と言った。


 小熊は何も言わず、もう一口コーヒーを飲む。

 缶を持つ指先がじんわり温まり、冬の風が頬をかすめる。

 その瞬間、あの写真展で見た雪原の道が頭に浮かんだ――そして、自分がそこを走る姿も。


 帰路はまだ長い。

 けれど、その長さも悪くないと思える旅だった。

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