第32話:妖艶なる刺客(2)
メリッサが見ていたのは炎だった。
燃え盛る故郷の村。
家々が崩れ落ち、黒い煙が空を覆う。
そして、炎の中で見知った村人たちが次々と黒狼の牙にかかっていく。
「やめて……」
助けようと駆け寄ろうとするが、足が動かない。
すると、炎に焼かれ、血に濡れた村人たちが、一斉に振り返った。
その瞳には、憎悪と侮蔑の色が浮かんでいる。
「メリッサ……なぜ、お前だけが生きている?」
「私たちを見捨てて、一人で逃げた裏切り者」
「復讐? 笑わせるな。お前はただの臆病者じゃないか」
父が、母が、幼馴染が、口々にメリッサを罵る。
それは、メリッサが心の深い場所で自らを責め続けていた言葉だった。
私は見捨てたんじゃない。
力がなくて何もできなかっただけ。
そう叫びたいのに声が出ない。
絶望が、メリッサの心を凍らせていく。
リアンは暗闇のなかに立っていた。
目の前に、1人の男が立っている。
黒い、禍々しい装飾が施された鎧。
その顔には、まるで感情というものが抜け落ちたかのような、虚ろな仮面が被せられている。
しかし、リアンにはわかった。
その立ち姿、剣の構え、そして、纏うオーラ。
それは、夢で見た父、アレンその人だった。
「……父さん?」
男は、ゆっくりとリアンの方を向いた。
「リアンか……」
その声は、アレンのものだったが、温かみは一切感じられない。
「まだ、そんなくだらない者たちと一緒にいるのか」
「くだらない……? 何を言ってるんだ! カイも、ナラトも、メリッサも、俺の大切な仲間だ!」
「仲間、か。所詮は、お前の旅路を遅らせるだけの足枷に過ぎん。リアン、こちらへ来い。お前の本当の力はそんな弱者たちのためにあるのではない。この世界を真の姿へと導くためにあるのだ」
アレンの幻影が、手を差し伸べる。
「お前の母、リーナもそれを望んでいる。さあ、私と来るのだ。お前の本当の家族の元へ……」
その言葉は、甘い毒のようにリアンの心を蝕んでいく。
父が生きている。
そして、自分を待っていてくれる。
仲間を捨てれば父の元へ行ける。
その抗いがたい誘惑に、リアンの決意が揺らぎ始めていた。
唯一、この精神攻撃に抗っていたのはカイだった。
カイの見た幻影は、エルネスト学長だった。
「お前はワシの期待を裏切った。その程度の力では誰も救えはしない」
そう囁く師の幻影に、カイの心も一瞬揺らいだ。
しかし、カイは自らの魔力のなかに宿る、あの冷たい呪いの残滓を感じ取っていた。
その異質な感覚が、この甘美な絶望が外部から与えられたものだと気づかせた。
「……目を覚ませ……!」
カイは最後の力を振り絞り、自らの杖を地面に突き立てた。
そして、学んだばかりの純粋な浄化の言葉を叫ぶ。
「―――万象に流れる生命よ、その清き奔流にて、偽りの帳を洗い流せ!ホリー!」
カイの全身から青白い光が波動となって放たれる。
それは、仲間たちの心に直接響く、魂の呼び声だった。
その光に、ナラトはレオの呪縛から、メリッサは故郷の悪夢から、そしてリアンは父の甘い誘惑から、同時に解放された。
「「「はっ……!」」」
3人は、まるで冷たい水に叩き込まれたかのように現実へと引き戻される。
全身は冷や汗で濡れ、心臓が激しく鼓動していた。
霧がゆっくりと晴れていく。
そして、一行が見たのは、少し離れた岩の上に、音もなく立つ1人の女の姿だった。
絹のように艶やかな黒髪。
血のように赤い唇。
月光を浴びて妖しく輝く豪奢なドレスを纏い、その姿は、戦場にはあまりにも不似合いだった。
しかし、その目に宿る全てを見透かすような冷たい光と一行を憐れむかのような歪んだ笑みは、女が只者ではないことを物語っていた。
「あらあら、私の魔術を破るなんて。なかなか腕の立つ魔術師さんがいらっしゃるのね。おかげで、皆様の楽しい夢の時間が終わってしまったわ」
女は、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「誰だ、てめぇは!」
ナラトが、怒りに震える声で叫ぶ。
「私の名はシルヴィア。偉大なる、アーク様にお仕えする者ですわ」
シルヴィアと名乗った女は、優雅に一礼した。
「本日は、皆様にご挨拶を、と思いまして。特に、あなた。リアンでしたかしら? アーク様は、あなたに大変興味をお持ちですの。まさか、竜まで手懐けているとは。……ですが、同時に、大変失望もなさっている。あなたが、そのような脆弱な絆に囚われていることに」
その言葉は、一行の心を逆撫でする。
激昂したナラトとリアンが同時に駆け出し、メリッサが影から短剣を投擲する。
しかし、シルヴィアは少しも動じなかった。
「およしなさい、野蛮な方々」
彼女が微笑むと、リアンたちの足元の地面が突然、底なしの沼のように変化し、その動きを封じる。
メリッサの短剣は、シルヴィアの体に触れる直前、美しい蝶の群れとなって霧散した。
「今日はほんのご挨拶。私の魔術が皆様の心にどれほど響くか、試したかっただけですわ」
シルヴィアは、リアンに向かって憐れむような視線を送った。
「リアン。あなたが捜しているお父様……アレンは、自らの意志でアーク様にお仕えしています。真の力と目的を見出したからです。あなたが仲間と信じるその者たちこそが、アレンの絶望の原因だったとも知らずに……。お可哀想に」
「何を……何を言っているんだ!」
「いずれわかりますわ。あなたがたがブレマダへたどり着いたそのときに。本当の絶望というものをその身をもって知ることになるでしょう」
シルヴィアは、くすくすと喉を鳴らして笑う。
そして、その体はふわりと闇色の花びらとなって風に溶け、闇の中へと消えていった。
あとには、あの甘い花の香りとシルヴィアの嘲笑だけが、悪夢の残滓のように漂っていた。
誰も、何も言えなかった。
焚き火の炎だけが、沈黙する一行の顔を不安げに照らしている。
物理的な傷は1つもない。
しかし、心には決して癒えることのない深い傷が刻みつけられていた。
ナラトは、レオに投げかけられた言葉を思い出し、唇を固く噛み締める。
メリッサは、故郷の仲間たちの幻影を振り払うように、恐ろしいほどの集中力で短剣を磨き始めた。
そして、リアンは、仲間たちの顔を交互に見つめた。
シルヴィアが残した毒のような言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『脆弱な絆』『彼の絶望の原因だった』。
父は、本当に自らの意志で……?
一行の間に、初めて疑念の影が落ちた。
ブレマダへの道が無限に遠く、そして暗く感じられた。
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